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「早くしろ」
彼の声が遠くに聞こえた。
「え…あぁ」
あいつに急かされ、手首をつかまれたまま5年は住んでいた真っ白い空間を後にする。
牢を出て、振り返るとその牢だけがなぜか浮き上がりおれが離れるのを名残惜しげに眺めているような気がした。
この刑務所は海沿いに塀を張り巡らせて崖の真上に建てられていたはずだ。
五年前の記憶を頼るならそんな風景だったと思う。
確かおれがいた第1棟は担当の看守が5人ほどの小規模な棟でこの建物自体も小さかったのだがその5人がこの建物内のどこにも見当たらない。
もちろん見つからないのは好都合だが余りにも不自然だ。
必ずと言っていいほど牢の前の廊下には看守が交代制で立っている。
交代の時間になると次の見張りの看守が万が一、逃げることが無いようにと前の担当が離れる前に来るのだ。
今考えると今日は見張りすらいなかったように思える。
「なぁ、看守はどこなんだ?」
「俺が殺った」
平然と言う海斗の横顔はさっきの情に満ちた顔とはあまりにも冷めすぎていた。
その冷たい顔と冷め切った声に背筋が強張る。
「…なんてな。嘘に決まってんだろ」
薄っすらニヤリと笑った顔でそう言う海斗はおれの頭をぐちゃぐちゃに撫ぜた。
おれが硬直したのをわかっていたに違いなかった。犯罪者のくせに本気で人を殺したような雰囲気に呑まれそうになる。少なくともおれは殺気を持つほど殺人衝動があったわけではないから。
あの冷めた声は、あの氷のような目は、あの冷たい横顔は、人を殺したことのあるそれだった。
初めて海斗に畏怖を抱いた瞬間だった。
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