押忍

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私には愛するものがある。笑ってはいけない。それは餃子だ。口中に放り込んだ時のあのアツアツ感。パリッとした歯ごたえ。そして口の中でジワッーと溶け出す旨味。世の中で一番好きなもの…それは餃子です。とキッパリ断言できる。 ただし、どんな餃子でもいいというわけではない。いや、餃子はもちろんどんな餃子も好きではあるのだが、中でも特別な一品がある。楊楊軒の餃子だ。それは道場の帰り道のコンビニの向かいに申し訳なさそうに佇んでいるこじんまりとした中華料理店である。ここの餃子が絶品なのだ。 おっと、道場というのは私が通う空手道場のことだ。これでも黒帯で、師範代を務めている。 食べ方にも作法がある。ビールと共に頼むのは必須だろう。まず、ビール。頃合いを見計らい、餃子を一口。これを交互に繰り返していくのだが、最後の一個は残しておく。「待っててね。」と心のうちにつぶやきながら。そして、予め頼んでおいたラーメンに取りかかるのだ。ラーメンを食べ終えて、一旦、箸を置く。しばし、黙祷。 そして、心を清めてから、最後の餃子を深く味わいながらいただくのだ。少し、冷めているのだが、味がよく分かる。口の中でパリッといった瞬間…それは何とも言えない、恍惚の世界への入口だ。 目をつむり、餃子を咀嚼しながら、自分の中で何かの区切りがついていくのがわかる。生きてて良かった。よし!明日からもガンバローという気持ちになれる。 さて、道場の練習後に立ち寄る楊楊軒なのだが、難点は店仕舞いが早いのだ。大概、一足違いで涙をのむ。練習後は気もそぞろで気持ちは楊楊軒なのだが、師範代たるものなかなか帰れるものではない。後輩達の面倒も見なければならない。 この日はどうしても楊楊軒へ行きたかった。もう、しばらく行っていない。本当は一人で行きたい楊楊軒なのだが、止むを得ず今日入ったばかりの入門生を連れていくことにした。道場の心得をこの日レクチャーしなければならないのだが、それでは楊楊軒が閉まってしまう。 入門生を急かしながら道を急ぐ。私は店の明かりがまだ点いているのを確認し、ホッと胸を撫で下ろし、ノレンをくぐった。
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