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秩が浜崎邸に来て、一月と少しが経ち六月の中旬になった。
秩とゆきは浜崎邸での生活にも慣れ、最初はトク以外には懐かなかったゆきも、今では新三郎の膝の中で昼寝をするまでになっていた。
しかし、浜崎邸の息子・信太だけは依然として秩を下女扱いし、心を開く事は無かった。
そんなある日の事だった。
「今日はせなならへん事もあらへんから、遊びにいっておいない」
朝餉の片付けを終え、井戸端で洗濯をしていた秩にトクが言う。
秩が手拭いで濡れた手と額に浮かぶ汗を拭って居る間に、洗濯桶に手を突っ込んだままのゆきが嬉々として話し出す。
「お出掛けするん?」
「そや、ゆっくり京見物してきたらええ」
嬉しそうなゆきを横目に秩は些か困り顔をしていた。
秩は田舎から京に来て以来、トクに着いて四条河原等には数度出掛けた事はあったが、他には近所をゆきを連れて歩く程度で遊びに出掛ける事は無かった。
つまり京の町は右も左も分からないのだ。
それを急に遊びに行けと言われても一体全体何処に行って良いもやら、皆目検討もつかなかった。
「おかあはん、一体、何処へ行ったらええんやろ」
真剣に困っている秩にトクは不憫さを感じた。
十六で前夫に嫁ぎ、子を授かり、家の事と子育てに終われて過ごした。
そして夫と死に別れて出戻ってからは、兄嫁に遠慮して遊ぶ事も知らずに過ごして来たのだろうと思えば、愛しくなる。
「そやなぁ、東寺はんがええかもな。今なら蓮が見頃でっしゃろ。
お子ん足やて半刻とかからへん思うて」
そう言ってトクは懐から小さな巾着を出すと秩の手に握らせた。
その巾着は微かに重くジャラリと音を立てる。
中を見れば銭が入っており、秩はどうした事かとトクの顔を見た。
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