508人が本棚に入れています
本棚に追加
惣次郎達と別れ、浜崎邸の古びた門をくぐった秩は大きく息を吐く。
秩は鮮やかな藍に染められた、木綿の着物の裾に着いた土埃を落とし、ゆきの着物を手早く直すと、もう一度大きく息を吐いて玄関の木戸を開いた。
「ごめんやす」
すると、待ちかねて居た様子で廊下を小走りに移動する足音とともに、妙齢な女の声がする。
「待っとったんや、秩はんにゆきちゃんどすか?」
出迎えた女は結い上げた丸髷に白髪の混じった五十を過ぎた女だった。
「へぇ、奥はんのトクはんどすか?」
秩の他人行儀な言い回しに、微かに眉を寄せたトクだったが、秩の立場にすればそれも仕方がないと直ぐに笑顔を取り戻した。
秩は山城乙訓郡の百姓・石井忠左衛門の娘であった。
そして十六の時に嫁いだのだが、亭主を流行り病で亡くし娘・ゆきを連れて出戻った。
しかし出戻った家には兄嫁が居り、肩身の狭い思いをする事になったのだ。
そんな秩を心配した両親が、人を伝い女手を必要としていたトクの亭主・浜崎新三郎の元へ、養女分として出したのだった。
その養女の話は、浜崎と秩の父との間で決まったもので、実際に秩とトクは事後承諾させられたのだった。
故に秩とトクは今日初めて顔を会わせたのだ。
見ず知らずの他人と今日から家族だと言われ、直ぐに馴染める筈はない。
ましてや幼い子を連れての事である。
警戒心や不安があって当たり前だ。
トクは少しでも秩やゆきの不安が薄らぐように笑みを深くすると、家の中へと招き入れる。
「そないに固くならんでおくれやす。今日から此処はあんさん達ん家どす。
遠くからきはって、ほっこりしたでしょう。
部屋に案内するよって、ちびっと休んでおくれやす。」
家の奥へと続く薄暗く長い土間をトクは先に立って歩き、秩にそう声をかけた。
最初のコメントを投稿しよう!