発病

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発病

「脳腫瘍があります。ですが、手術は難しいでしょう」  今まで病気らしい病気にかかったことのなかった義母が、軽いめまいが続いて診察を受けた際、医者にそう宣告を受けたのは半年前の秋晴れの日のことだった。  義母は、はいそうですかとろくに詳しい説明を求めずに診察室を出た。  余命は半年とも一年ともつかないと、一人息子である周子の夫と周子にだけ知らされた。ただ、八十五歳という高齢。もしかしたら寿命のほうが先に来るかもしれないと主治医は付け加えた。それでも、告知を受けてから初めの二、三ヵ月のうちは、周子は神経質に義母の体調を気遣っていた。 義母は動揺を見せず、何事もなかったように淡々と日々を過ごしていたのだった。 周囲に心配をかけさせたくない。大丈夫、私は元気だから。そう見せているように周子には思えた。 気丈な義母。 義父が九年前に肺炎で亡くなった時も、義母が目を赤く腫らしていたのは亡くなったその日だけだったそうだ。いつまでもくよくよしていられないからと笑顔を見せたていたと夫は話してくれた。いつも回りに気を使っている、そんな義母だった。 「親父も金に無頓着だったけれど、母さんも、遠慮ばかりしていつも損をしていた。旭川にいる高野の婆さんが死んだときは遺産の取り分を辞退してしまったし、遠藤の爺さんが死んだときだって、自分達は遠藤家を出た人間だからと遠慮して、旭川にある土地は叔父さんのものになってしまった。もっと我侭を言えばいいのに。昔っからそうだ。余裕なんかないくせに、母さんはいつまで経ってもお嬢様が抜けないんだから」 いつだったか、夫は母親の実家である高野家の遺産相続や遠藤家の土地相続のときのことを、口を尖らせながらそう話してくれた。 義母の実家の高野家は軍人相手の商家だったらしい。戦後は占領軍のGHQ相手に商売をしていたのだという。 終戦、GHQなどという歴史の教科書に出てきそうな言葉が夫の口から飛び出したときには、十五歳年上の夫がひどく年を取って感じられたものだった。もちろん夫は戦後十三年が過ぎてから生まれているのだから、GHQに直接かかわりがあったわけではないのだが。 高野家は使用人もいるような羽振りの良さで、義母は女学校出のお嬢様育ちだったそうだ。 女学校、お嬢様という違う世界を想像させる響きに、周子は少女趣味的な空想をめぐらせてうっとりしたものだった。 義母の嫁ぎ先、遠藤家もまた、終戦直後でも食べ物に困らないような裕福な家だったらしい。 「何一つ不自由のない生活だったのに、親父は家を継がずに勘当同然であてのない東京へ夫婦二人で上京したんだ。だから俺にはその恩恵は一つもなかった。生活は苦しくて、子供の頃、みんなが持っているおもちゃを買ってもらえなくてね。もし親父があとをついでいれば、俺もこんな狭いマンションのローンに追われないで済む生活ができたかもしれないのに」  と、夫はその時、不満そうに昔話を締めくくったのだった。 その後、遠藤家は義父の兄二人が戦死してしまったため、他に跡継ぎもなく、不景気の折、会社は人手に渡っていた。 高野家もまた昔の羽振りの良さは影を潜め、細々とした生活を送っているのだと夫がどこから聞いたのか教えてくれた。 義母はほっそりしていて頼りなげで、どことなく品があるような物腰を感じさせるのは、そんな育ちにあるのかとも思う。 上京してからは生活に苦労していたはずなのに、今でも凛としたところがあり、人前では決してだらしない姿を見せない義母。 夫は気が休まらないだの、窮屈だのと義母のことを煙たがっていたが、そんな義母を周子は尊敬していた。 結婚したと同時に義母と同居して早九年になるのだが、義母の前では周子は未だに緊張してしまい、敬語を使ってしまうのだった。 義母の家族関係は未だに謎だった。 勘当同然で東京に出てきたせいで遠藤家とのかかわりが途絶えているのはわかるが、二人きりの姉妹だというのに、義母の妹から今までに年賀状一つ届いたことがないのだ。それどころか高野の親戚からも一切連絡がなかった。 義母が病気だということを旭川にいる義母の妹に知らせるために連絡先を義母に訊いたこともあったが、高野の人間とは縁を切ったからと言って、義母はそのときも教えようとしなかった。 親戚と縁を切ってしまうほどのことが旭川であったのか。いったいそれは何だったのだろうか。
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