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晴れた空の澄み渡った昼。今は何時なのだろうか。左手首を覗いてみる。そこにはもうぴくりとも動かない兵士のように針が横たわっていた。
半ば自棄になりながら足を進める。腰の辺り、左寄りだろうか。鈍い痛みが走る。いつ痛めたのか、漠然とした、ぼやけた記憶を探る。
あのときもそうだった。何が彼女を傷付けたのかはっきりしないまま、彼女のアパートを飛び出していた。後になって冷静さを取り戻し、後悔の沼に浸る。
今は冷静さを得ることさえままならない。ここが何処であるのか。何故ここに私がいるのか。まだ理解は出来ない。
少し進むと、小さな集落があった。人気がない。そこに立ち並ぶ木々も生気を失ったかのように項垂れていた。猛禽類の声さえ耳に忍び寄ってこない。
だんだんと日が落ちてきた。
「どちら様で?」
不意に声がした方向に目をやると、老婆が立っていた。先程見た木々の風貌とどこか類似しているように感じられた。
「どちら様で?」
二度目の問いに、私は焦りながら声を絞り出した。
「浪越。」
「海の波に、越後の越。」
老婆は頷くような、項垂れるような仕草をした後、変わらぬ口調で言った。
「私は昔からここに棲んでおります。いつ産まれたのか、いつ名を与えられたのかはっきりしません。ですが、ここには確かにいるのです。」
不思議な言葉だと思った。ただの老婆の戯れ言にしては違和感を感じた。話口調があまりにも整っていたのだ。老婆ではなく、機械から発せられたような、無機質で冷たさを感じさせるものだ。
「ですが、私は何か重大な罪を犯しました。法で取り決められていないような、重大ななにかをです。」
初対面の私にこのようなことを言うのは、高価な壺を売る宗教団体のような、占い師のような不気味さを伴い、私の耳の深くにこびりついた。
「ところであなたの名前は。」
私は老婆の話を遮るようにまくし立てた。
「解りません。昔、名はありました。ですが、今は、解りません。」
いよいよ不安に襲われた。
気付くと、日もすっかり沈んで、辺りは吸い込まれるような闇に包まれていた。あの山の淵にしがみつくように存在していた太陽が、今ではなんの面影も見せず、その山向こうに潜んでいるのだろう。
「こんなに日も暮れて、こんなとこで立ち話もあれですから。」
名も無き老婆は私を導くかのように歩き始めた。私はそれに従う。
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