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その男が走ったのは、決して何かから逃げているためではなかった。
偶然、喉が乾き、
偶然、飲み物を買いに、近くのコンビニに行こうとした所、
偶然、道路の真ん中に倒れている女の子がいて、
偶然、トラックが前からやって来た。
偶然、彼以外はそんな事件に出会わなかったからである。
「畜生!!
黒いし、やたらにひらひらした服だから一瞬ゴミだと思ったわ!!」
辺りが紅く染まる夕方。
山の麓の国道である。
人けがあるはずがない。
男は着ていた黒いジャケットを脱ぎ捨て、気が付くと女の子の方へと走りだしていた。
三歩目を踏み出した時、
タンスに眠っていたせいで縮んだジーパンで出歩いていたことを、男は後悔した。
「走りにくい!!
ダメだ、このままだと間に合わない!!」
男は死に急ぐのではなく、ただ女の子を助けたかった。欲をいえばただヒーローになりたかった。
今までの逃げてばかりだった人生を変えたかった。
だが現実はそう上手くいかない。たったの二メートル。数歩進むだけ。それでも固いアスファルトを上を何時間も浮遊しているような感覚だった。つたう汗が白いTシャツを濡らす。
『引き返せば自分は助かる。』
そんなことが頭をよぎった。
「おんどらああああ!!」
でも、しなかった。男は倒れている女の子を蹴り飛ばした。彼が始めて出した本気だった。始めて振るった暴力だった。
「おいガキ!!
早く家に帰って腹に薬でも塗っとけ!!」
彼は目の前に広がる
“自分”の血と夕焼けの真っ赤な景色を観る直前、
間抜けにもそんな言葉が出たのだった。
「ぷふっ、俺だせえな。」
清々しい気分。笑いながら落下する男にはそんな気分しかなかった。
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