第二話 「雨の止んだ日」

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第二話 「雨の止んだ日」

 次の日の朝。いつもより早めに登校した私は、昨日の夜何度も畳み直した傘を持って黒崎くんに声をかけた。  大きな緊張と、小さな親しみをかかえて。   「黒崎くん、おはよう」 「……」    踵のつぶれた上履きを履きながら、無言で顔を上げた黒崎くんは、今日もいつも通り細長くて、いつも通り表情がない。  でも靴箱にそえられた左手には、いつもと違うまっ白な包帯が巻かれていた。   (?)    どうしたんだろう。昨日の放課後までは怪我なんてしていなかったのに。   「あの、昨日はどうもありがとう。私、家まで結構歩くから、すごく助かっちゃった」 「……」    よほど傷が痛むのか、靴をはくのも鞄を持つのも同じ手だ。やがて立ち上がると、無言で空いた手を差し出してきたから、   「それどうしたの?」    手元をのぞき込みながら訊ねると、切れ長の目が逃げるように伏せられた。   「何でもない」    ひとつの取っ掛かりもない、平坦な声。   「でも、手、使いにくそう」 「日原には関係ない」 「それはそうだけど――」    明らかに会話を拒んでるニュアンスに、余計なこと聞いちゃったかなと思いつつもつい言葉を続けると、苛立たしげな舌打ちが上がった。   「――関係ないって言ってんだろ、鬱陶しいな」 「う……」    鬱陶しい。  棘だらけの声に言葉を失う。  心底うんざりした表情。邪魔だと言わんばかりの態度は昨日縮まった(って勝手に思ってた)距離をあっと言う間に遠ざけて、のどに苦いものが広がった。    私、なれなれしくしちゃったかな。  黒崎くんの意外な一面を見た、なんて一人で舞い上がって。   「しつこく聞いちゃってごめん。えっと、じゃあ何か困ることがあったら言ってね」 「……」 「手伝うから。傘のお礼」    あわてて取りつくろった笑顔は自分でも察するくらい無理があったけど、せめて笑っておかないと次に話す時にもっと気まずくなる。    誰にだって聞かれたくないことはあるよね。  落ち込みそうな心をなぐさめて、ためらいがちに会釈しようとした時。   「……別に、礼なんて」 「桂、何してんの?」    ため息まじりの短い言葉と、明るい声が重なった。    華奢な右手をひらひらさせながら近付いてきたのは、友達の野宮雪乃だった。  雪乃とは中等部の入学式でとなりあった時以来の付き合いだ。人目を引く華やか外見も、思ったことをはっきり言う性格も私とは大違いなのに、気が付けばいつも一緒にいる。   「雪乃、おはよう……って、あ」    片手を上げながら振りかえった途端、視界のすみで動いた影。咄嗟に呼び止めようとしたけれど、朝陽に映えるきらきらの笑顔がやってきた時にはもう、黒崎くんは私の横をすり抜けていた。    ほんの少し触れた硬い肘の感触。ひとつ瞬きする頃には、背の高い後ろ姿は見えなかった。   「……行っちゃった」 「おはよ。どうしたの、黒崎なんかと話してさ」 「昨日傘貸してくれからそのお礼……の、つもりだったんだけど」 「あいつが傘ぁ? なんか下心とかあるんじゃないの」    癖のないきれいな髪をかき上げて、唇をとがらせる雪乃。よっぽど不愉快だったのか、形のいい鼻にはキュッとしわが寄っている。  雪乃は黒崎くんが嫌い、なんだと思う。  というか、誰に対しても無愛想で授業にもあまり出ない黒崎くんはクラスで完全に浮いているから、みんな平気で悪口とか言っていて。  いい子ぶっていると思われそうで言えなかったけど、私はそういうのが苦手だった。   「全然。下心どころか避けられてる」 「黒崎が? 桂を? なまいきー」 「でも、黒崎くんって親切だよ。傘一本しかなかったのに、私に使えって」    小鹿みたいな大きな目が冷ややかに細められる。   「あのね、不良がたまたま席を譲ってもいい人ってわけじゃないんだよ。普段のあいつを思い出してみ? 自分以外はどうでもいいみたいな態度でさ、何しても許されると思ってるんだって」 「そこまで言わなくても……」 「桂だってさっき何か腹立ちそうなこと言われてたじゃん。なんだろ、上の二人が聖人だから、弟一人でバランス取ってんのかな」 「今お兄さんのことは関係ないでしょ」    お兄さん、というのは特進科に在籍する黒崎征一さんと黒崎要さん。  二人は学園の王子様……なんていうと漫画みたいだけど、大袈裟でなく名前を知らない生徒なんていない有名人で、全女子の憧れの的で、話すことさえ畏れ多い正真正銘のスターだった。  そもそも、黒崎くんの家自体が規格外らしい。  私はそういう話に疎いから詳しくはわからないけど、大企業の経営者一族だとか、親戚には旧華族や大学病院の院長や政治家が大勢いるだとか、どこから入るのかすら分からないお屋敷に住んでるだとか、別世界みたいな話を何度も聞いた。    そんな家に生まれた二人はおとぎ話の王子様のように完璧で、歩くだけで、振りかえるだけで、見えないライトが当たっているように人を惹きつける。    けれど末っ子の黒崎くんは違う。人付き合いが嫌いで、いつも影の中にいるみたいで。きっと本当の子じゃないんだ、なんてひどいことを言う人もいた。   「桂、黒崎になにかされたらすぐ言いなよ」 「なにもされないって」 「わっかんないよ? 陰でストーカーとかしてそうな感じだし。今もどこかで見てるかも」 「見てないってば、もう」    雪乃の気持ちは嬉しいけれど、根拠のない悪口を言われるのは困る。  そもそもこんなの、いじめと大差ないよね。黒崎くん気にしてるのかな。   「黒崎くんの話はもう終わり。それより、今日の数学助けてよ」    まだ何か言いたそうな雪乃を片手で止めて、私は鞄から先週配布されたプリントを取り出した。よれよれになった二つ折りの紙には書き込みこそたくさんあるけれど、解答欄は空白のままだ。   「何これ?」 「この前配ってたでしょ。一応目は通したんだけど一行目からわからないところだらけで、このままじゃ今日のテストも厳しいかも」    中等部時代から文系一直線で理系科目は補習回避が目標の私たち。わからない箇所を示す指を無言で見つめていた雪乃は、やがて「うわあ」と額をおさえると。   「……やば、今日ってテストの日だっけ」 「え、もしかして忘れてたの!?」 「完全に」 「あーあ、補習確実だね」 「桂だって先週補習だったじゃん」 「田辺先生の数学がむずかしいのが悪いんだもん、この前なんてクラスの半分近くが補習だったし」    眉をよせて顔をしかめながら、けれど、心の中でほっと息をつく。   (良かった、話題がそれて)     口元を安堵に緩ませて、私は窓ガラス越しの青空を見上げた。  雲ひとつない晴天に白く輝く太陽。いつも羽織っているカーディガンが、今日は少し暑かった。   「なんか六月みたいな気温だね」 「本当にねー。桂大丈夫?この前貧血おこしてたでしょ」 「ありがと、気をつける」 「今日の体育外だしさ、ただでさえ紫外線やばいのに昼前とか最悪」 「はいはい、がんばろうね」    わめく雪乃をなだめながら教室へ向かう。窓側の肩口に、熱があつまるのを感じながら。   (陽射し、強いなあ)    窓から差しこむ陽は目に痛いほど眩しくて、初夏の訪れがちらつくようで。あまり身体の強くない私にとっては、爽やか半分、憂鬱半分な陽気だった。
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