第三話 「白い部屋、赤いガーゼ」

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第三話 「白い部屋、赤いガーゼ」

 朝のやり取りから数時間後。予感は的中した。   「……すみ、ません……」    ひしゃげてつぶれそうな声が、カラカラの喉から絞り出される。  昼前の気だるさがただよう校舎内。血の気の引いた指でなんとか保健室の戸を開いて、私は布張りのソファへと倒れこんだ。    ぐるぐる回る世界。力が入らない足。  遠く響くピアノの音……あの曲なんだっけ。知っているのに思い出せない。   (……きもちわるい)    正面の窓からは、真夏のような陽射しが降り注いでいる。その容赦ない暑さに私がめまいを起こしたのは今から十数分前、バレーボールのネットを張っていた最中だった。  唐突に目の前が真っ暗になって、立てないと思った時にはもう、その場に座り込んでいた。覚えているのは乾いた地面の色と、駆け寄ってきた雪乃の細い足だけ。   (……雪乃、心配そうだったな)    ほんの数時間前気をつけるって言ったばかりなのにこんなことになるなんて、自分で自分が情けない。    先生に声をかけようと薄目を開いて奥を覗いたけど、いつも白衣の後ろ姿が見える椅子はからっぽで、水色のカーテンだけが揺れていた。生徒も、私以外にはいないみたいだ。    頭が痛い。全身が鉛のように重たくて、ソファに沈みこみそうな錯覚に陥る。体調を崩したときは毎回こうで、指一本動かすのでさえ億劫だった。  とはいえ、いつまでも体操服で転がっているわけにもいかないし、誰かに見られたら恥ずかしい。   (少し眠って、昼には戻ろ)    ゆっくり横になれば、血も戻るはず。そろりと身を起こして、私は壁伝いにベッドへ向かった。  パーテーションの向こうに並ぶベッドは数が三つと少ないこともあって満席の日が多いのだけど、今日は珍しく貸切みたいだった。  ジャージの上着を脱いで、靴の砂を払う。   「お邪魔します」    人の気配なんて無かったけど、なんとなく声をかけながら間仕切りの中へと身を滑り込ませると。   「……」 「……あ」    前言撤回。  奥のベッドには先着がいた。   「こ、こんにちは」 「…………」    無造作に脱ぎ捨てられた靴。両手におさまった分厚い本。長い足をシーツに投げ出して、制服のままベッドに座っている黒崎秀二くんが。  黒崎くんが保健室に。意外な遭遇にビックリしたのも束の間、そう言えば体育の時も見かけなかったと思い出す。  やっぱり怪我が痛いのかな。靴を履くのもつらそうだったし、球技なんて出来ないよね。    「え……っと、偶然、だね」 「……」 「私、貧血起こしちゃって。ほら、今日暑いから」 「…………」    わざとらしく腕まくりして笑っても、伏せられた視線が上げられることはない。  前に立つ私なんて存在しないかのように本のページをめくる指。表紙をささえるもう片方の手には、白く乾いた包帯が巻かれていて。   「黒崎くんは、怪我……」    大丈夫? と訊ねかけた唇は、けれど小さな声にさえぎられた。    「……い」 「え?」    低いトーンが聞きとりにくくて、軽く顔をよせる。ようやく喋ってくれた、なんてのん気に思いながら。  けれど。続く言葉はぞっとするほど冷ややかだった   「気持ち悪い。朝から馬鹿みたいに話しかけてきて何のつもりだよ、いい加減うんざりする」 「…………」    気持ち悪い。朝の鬱陶しいもだけど、十六年生きてきて、初めて投げつけられた言葉だ。  少し、ううん、かなりショックかも。言葉そのものより、それだけ嫌われてるっていう事実が。   「ご、ごめん。でもあの、傘貸してもらったし、ちゃんとお礼言わなきゃなあって」 「もう返したんだから、用は済んだだろ」 「そうだけど……同じクラス、だし」 「だから?」 「だから、えっと……」    突き刺さるような言葉に、怒りより先にチクチクした痛みが胸のなかに広がる。  なんでこんな風にしか話してくれないんだろう。全身が、他人を拒絶しているみたい。黒い目や髪も、濃い色に浮かび上がる白い包帯も、壁の向こうにいるように遠い。   「…………」    気まずくて、何を言っていいのかわからなくて、ただ立ちつくす私。  でも。   (……あ)    きつい言葉を避けるように一歩足を引いた途端、不意に強いめまいが襲ってきた。    ついさっき倒れたばかりなのに、無理に動いたり、ぐるぐる悩んだりしたのが身体に障ったのかもしれない。  唐突に暗くなる視界と、硬いもので殴られたみたいな痛み。ずきずきと頭に広がるそれは、あっと言う間に両膝から力をうばって。   (……まずい、かも)    そう思った時にはもう手遅れだった。目の前が真っ暗になって、自由のきかなくなった身体が前のめりに倒れていく。   「……っ!!、……原、おいっ」   遠ざかる意識のむこうで誰かの声が聞こえたけれど、指先すら自由に動かなくて。  深く深く、頭から落ちていくように私は気を失った。    ただ。  意識を完全に手ばなす直前、強く肩を掴まれた感覚だけは、消える炎の瞬きのように、はっきりと脳に焼きついていた。
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