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++春++第一話 「プロローグ」
彼とはじめて言葉を交わしたのは、雨音に包まれた夕暮れ時だった。
「これ、使えよ」
その、無愛想な言葉と一緒に差し出された傘を見たとき、私は大きく見開いた目をぱちぱちと瞬かせるだけだった。
皆とっくに帰ってしまった夕暮れ時。
濡れて黒っぽくなった石畳と、絶え間なく地面を叩く糸のような雫。図書室の整理を手伝っている内に天気が傾いて、一向に止まない雨にため息をついていた私。
そして声をかけてきたのは、同じクラスの斜めうしろの席。
「誰とも話さない黒崎秀二くん」
厚い雲を背負って生きているような人――それが黒崎くんの印象だった。
無口で無表情。いつもつまらなさそうに頬杖をついていて、誰かと笑ったり、軽口を叩いたりしているところなんて見たことがなかった。
だから、その黒崎くんが何の関わりもないクラスメイトに傘を貸してくれるのが信じられなくて、私は几帳面にたたまれた傘と、唇を引き結んだ黒崎くんを何度も見比べた。
「えっと……いいの?」
「傘がなきゃ帰れないんだろ」
「でも悪いよ、黒崎くんが濡れちゃうし」
「いいから持ってけよ、ほら」
苛立ったようにそう言うと、無理やり傘を押しつけてくるりと踵を返す。
せめて途中まで一緒にと声をかけようとしたけれど、間に合わなかった。雨に濡れて色の濃くなった制服が、薄暗い景色と混ざり合いながら角の向こうへと消えていく。
「……」
突然の出来事に、私は傘を握りしめて立ちつくすことしかできなかった。
「行っちゃった……」
初めて喋った男の子。
交わしたのはたった二往復の短い言葉。それも、素っ気ない声音と、不機嫌な表情つきの。
でも、手の中に残った傘には確かな親切がこめられていて。
「……いい人、だな」
ゆっくり、じんわり。
雨が地面にしみ入るように、胸にわき出でるささやかな好意。
「……うん、いい人」
もう一度くり返して、できるだけ丁寧に傘を開く。艶のない真っ黒な折り畳み傘は実用第一っていう感じで、黒崎くんによく似合っている気がした。
「明日、お礼言わないと」
暗い夕方。憂鬱な雨。
けれど、足取りは軽やかで。
人って話してみないとわからないよね。
ひとり頷くと、踏み込んだ砂利道が返事のように短く鳴った。
雨の日の短い会話。
ささやかな偶然が生んだそれは、振り返れば、いくつもの終わりと、その先に続くひとつの始まりを導く糸だった。
「明日は晴れたらいいなあ」
絡まり、見失い、それでも決して切れることのない。
細く、強い糸だった。
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