柔らかく

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道ってよく人生に例えられるたり、 手段として表したりされるけど、 いったいその中に正しさとか 間違いとかってあるんだろうかと、 改めて考えさせられる瞬間だった。 前を走る市道に面した図書館の2階ロビーは、 幅の広いソファーが置いてあり、 そこは飲食が許されているため、 そこで握り飯をかじることが最近多い。 訪れる利用者はそこを使うことがあまりないため、 人目を気にせず食べれる点はいいが、 如何せんテレビも掲示物もない無機質な空間なので、 広い開口の窓から見れる外をボーっと見るのが常である。 それでも目に映るのは、 前を右から左、 左から右へと 往来する車が走る横一直線の道と、 その道の右端から交わり畑を 切り裂くように斜めに真っ直ぐ作られた道しかない景色のため、 眺めるでもなく見るでもない状態に もの足りなさを感じずにはいられなかった。 真上から見ると、 目の前の道が基準線となる横辺で斜めの道が 横辺に対し左上がりの鋭角でかたどられた三角形の辺。 そしてそれが感覚として強く植えつけられていた。 だがある日、 その斜めの道に右で交わる側の反対方向から入った瞬間に、 それまでの感覚が一気に飛び去った。 その地点に入る前、 自分としてはそこを歩いている時点で そこが真っ直ぐの道であり、 それに対して直角の形でT字路になっていたのが、 その斜めの道だった。 T字路で折れたと同時に、 目の前に映しだされた直線は、 図書館の前の道と同じ「基準線」に変わった。 ということは、 当然その先で交わる基準線と信じていた道は、 右下に折れて映る斜線でしかなくなった。 つまるところは、 正規の道なんてものは存在しているように見えるだけで、 実在しないということだ。 見かたや捉えかた、 何を基準にするとか基準にしないとかであって、 それを個性というのか、 逆に依存や固定観念や希望的観測というのか、 価値観と呼ぶだけの「違い」だけだろうと考えさせられた。
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