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視線は自然と、カウンターの奥にあるもう一つのドアへと向いた。
そこは奥の部屋に通じている。店主フロリデ専用の居住部屋だ。
店に誰かが入ってくるとそちらの部屋に分かる仕組みになっているらしく、アリムが店の手伝いにくればすぐに派手な女店主が顔を見せてくれるのだが、今日はそれもない。
アリムは濡れた服を布で拭ってから無人のカウンターの中に入り、首をかしげた。
店の鍵はかかっていなかったから、二人の内どちらかは必ず店にいるはずだ。
となるとやっぱり奥の部屋なんだろう。そう思い、奥へ続くドアをノックする。
案の定、向こう側で人の気配がした。威勢のいい女店主の声がして、しばらく待つとドアが開き、フロリデが顔を出した。
「ああアリム。悪いねェ、うっかりドアに〝風〟を置き忘れてたよ。今来たんだよね?」
アリムは「はい」とうなずいた。
フロリデは「ちょっと取りこんでいてね」と言った。
まとめあげた豊かな黒髪、艶やかな白い肌。唇の下のほくろがとてもよく似合う、少しきつめの美人だ。柔和な顔立ちの者が多いゼーレでは悪目立ちする彼女は、それもそのはず、この辺り出身ではないらしかった。何となく聞くタイミングがなくて詳しくは知らないのだけれど。
アリムが暮らしていた〝常若の森〟が『終焉の刻』を迎えてから、ひと月が経った。
終焉とは言うが、まだ完全に消滅したわけではない。あのまま森で暮らすことも不可能ではなかったろう。
だが、アリムは街で暮らすことを選んだ。
昼間は伯母に紹介してもらったパン屋で働き、夕方からはフロリデの店の手伝いをしている。と言っても『ゼルトザム・フェー』は客がほとんど来ないので、実質手伝いのためというよりも、店の唯一の従業員であるトリバーに勉強を教えてもらうために来ていると言ったほうが正しい。
あれから森には、数えるほどしか行っていなかった。
森への愛着が消えたわけではない。むしろ逆だ。森と離れがたい心をうまくなだめすかすことができず、アリムは日々無理にでも用事を入れる。仕事や勉強に没頭する。
それでも時々寂しくて森に行く。そのときは必ずアークとトリバーが一緒だった。ようやく見えるようになった精霊たちと戯れながら、枯れていく森の変化を見て、そうして――
一刻も早くこの森に一人で訪れることができるようにと、強く思うのだ。
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