序章

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 もちろん、この件に関してはベルティストン本部から大層なお叱りを受けた。ゼーレという特別な街に支部を置くにあたって、エルレクほど都合のよい者はいないという事実がなければ、とっくに左遷されているはずである。エルレクはゼーレ出身であり、この地には血縁その他縁者が多かった。ゼーレは縁が何より重要な〝商都〟だ。ベルティストンとメガロセィアの二大大国の間に身を置く唯一の街。  そこまで考えて、顔をしかめる。  今の彼には森やメデス教授以外にも頭を悩ませる事案があることを思い出したのだ。 「――ですから、もうひとつの調査については決して失敗することはできんのです支部長殿」  ふいにメデスが声のトーンを変えた。元々高めの声が、さらに高くなる。エルレクはうろんな視線を投げやった。 「……もうひとつの、か」 「そうです。『女神の左目』についての調査です」  教師長は胸を前に突き出した。腹も出ているから、見た目には風船が膨らんだように見える。  ヨギがひそかに、窓の外へと目をやっている。部下が何を確かめたのか、エルレクにも分かっていた。  ここ数日は天気が悪い。冬の寒さが一段と厳しい時期に雨が続いている。今日もさらさらとした雨が降っていた――それがもうじき、雪に変わるだろうと街人は予想している。  ゼーレでは雪はとても珍しい。そもそも、雨量もさほどない土地柄だ。寒さならば十分あるが、やや湿気に欠けるのである。近場に山脈がないからなのか、それとも風が強いからなのか、詳しいことはわかっていない。様々な事情で、この土地は風土学者が立ち入らない。 (思えば常若の森の件のころから、天気は悪くなっておったな)  思い出すと苦い記憶が胃の底ににじみ出る。  まるでそれに不愉快をかぶせるかのように、メデスが勢いづいた。 「今は『女神の左目』についての調査をするに絶好のタイミングですな。ただちに実行に移すことを提案いたします。私は独自にこのことについて人選をしました」  ずっと背後に隠していた手を前に持ってくる。幾枚かの書類が握られていた。 「――五人ほど確認させて頂いたが、やはりこの娘が適任のようですな。ルクレシア・エルセン。エルセン教師ならば私もよく知っている。支部長殿はご存じですかな」  名前なら知っている、と答えた。
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