序章

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「その妻の方なら話したこともある」 「ナンナ・エルセンは渡し人ですな。まあ、よい条件でしょう。教師と渡し人――これらを両親に持って、不自由な生活をした者を私は寡聞にして知りません」  メデスは満足そうに、書類に落としていた目をエルレクに向けた。 「というわけで、支部長殿。ルクレシア・エルセンを『女神の左目』の調査員として推薦いたします。これは急を要する案件です。調査期間は長く見積もってもひと月。春の気配が見えてきてしまったら、『女神の左目』の意義は様変わりしてしまう」  分かっている――  うんざりした気分でエルレクは片手を挙げた。  今ここで、あっさり「私も『左目』は興味深いと思っている。やれ」と言ってしまえないのが心の底から腹立たしかった。それもこれものせいだ――  しかしエルレクが口を開く前に。 「……〝背く者〟の機嫌を伺うような真似は、よもやされませんでしょうな、支部長殿?」  メデスはエルレクの言葉をさらった。  教師長の目が――驚くほど淡い茶色をしていながら、驚くほど粘着質な瞳が――暗い光を灯してエルレクを見つめていた。 「これは意趣返しとも言えるでしょう。今回の案件のことが〝背く者〟の耳に入らなければそれはそれでよい。入ったならば――今度こそ、仕留めてしまえばよろしい。それを本部に送れば森の失態を十分取り戻せましょう」  本部も腹に据えかねておるようです、とメデスは言った。  エルレクは舌打ちした。  同時に脳裏をよぎった声がある。それはあの森が枯れ始め、アリム少年を奪われてすぐのこと。  突風と共に届いた謎の声―― 『何度でも挑戦すればよい。手を貸してやる――』 (あの声のことも分からぬままだ)  ヨギに調べさせても、あの声、あの腕が誰のどんな力だったのかが全く分からない。手がかりさえなかった。そんな声を宛てにするなど愚かすぎる。だが…… (あの声はアークと因縁があると言った。もしもそれが真実ならば……少なくとも我らの不利益になる可能性は低い)  二度の失敗は許されぬ。エルレクはしばし沈黙する。
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