序章

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 ルクレはアリムを好ましく思っていた。終始とても憂鬱そうにしていたけれど、素直さは隠しきれていなかった。こんな弟がいたらいいなと心から思った。ルクレの実弟はとても腕白で悪戯好きで、目上の人間の言うことなど滅多に利かない。もちろん、弟のその反抗的なパワフルさは、それはそれでやっぱり愛おしいのだけれど。  吐息とともに、額を窓から離した。  曇った窓ガラスの向こうにしとしとと降る雨。ルクレはふと思い出す。そう言えば、めずらしく雪の降る年には、何かがあると父から聞いたことがあるような――  重いノックが唐突にルクレの耳を叩いた。  ルクレはすぐに返事をした。補佐長だろうか、それとも友人の誰かだろうか?  急いでドアを開け、ルクレは跳び上がりそうなほどに驚いた。 「失礼。ルクレシア・エルセン」 「ヨギ様……!?」  特徴的な灰色の髪に細面。長身で、静かなたたずまい。低くひっそりと渡る声。  途端に心臓が早鐘を打ち始める。ルクレは思わず両手で胸を押さえた。――先月の少年の世話役が楽しかった理由はもうひとつある。滅多に会えない、この人と直接話す機会に繋がったからだ。  ヨギは部屋に滑り込み、後ろ手でドアを閉めてそこに立った。ルクレは戸惑いながらヨギを見上げた。  灰色の目をした上司は無表情でしばらくルクレを見ていたが、やがて薄い唇を開いた。 「近く新しい調査が始まります。それにあたって、ルクレシア・エルセン、あなたに頼みたいことがある。今すぐ支部長室へ」 「新しい……調査、ですか?」  困惑気味にそう呟いたルクレの脳裏に閃くものがあった。そうだ、父が少しだけ言っていたのはこれだ。雪が降る時期にしかできない調査があると――  ルクレは花がほころぶような笑みを浮かべ、「今すぐ参ります」と答えた。  大好きな協会の役に立てる。それは彼女にとって至上の喜びだ。「ローブに着替えます」と伝えると、青年は頷いて部屋の外へ出てくれた。  ルクレはクローゼットに向かいながら、首をかしげた。――ヨギ・エルディオスは影のような人だ。影は単独では心を見せない。他人にそれをはかることなど不可能だ。だから。
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