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イロノ草原の爽やかな空気が、ウィルの頬を撫でた。ウィルは何故ここに自分がいるのか分からなかった。目の前に立っていたのは、見覚えの無い女性だった。肩まで届かない茶髪に、DREAM MAKERの社員と同じような灰色のスーツを身に纏った女性だ。彼女はこちらを見て泣きながら笑っている。その表情に胸が締め付けられるような感覚。感情が戻ったので、この感覚は久し振りだった。自分は何故、この女性の涙に動揺しているのだろうか。
「君は―」
「さようなら、ウィル」
どうして泣いているの、と尋ねようとしたのと、彼女がそう言ってイロノ草原に佇む扉に入っていったのは同時だった。この扉はウィルがDREAM MAKERに繋げる時に出現知るものだ。ウィルはこの扉を出現させた覚えは無かった。
彼女が入ったと同時に、扉は音も無く消える。ウィルは呆然と扉があった場所を見つめていた。
一体彼女は何者なのだろうか。DREAM MAKERの社員ではあるのだろうが、ここへ来られるのは重役くらい。彼女は若く、重役を担っているとはとても思えなかった。
何とも奇妙で、不思議な女性だ。
後で築野に聞いてみよう、と思ってからふと自分の異変に気が付いた。
どうして、自分は泣いているのだろう。
涙が落ち着いた頃、ウィルは空を飛んで屋敷へと戻った。事務所の中に入ると、いつもの仲間達の他にクラリスが訪れていた。
クラリスは神妙な面持ちでライジル、ラビィ、リック、オロロンに何かを伝えていたようだ。ウィルが戻った事に気が付くと、クラリスが顔を上げて微笑んだ。
「よお、ウィル。帰ったか」
「クラリス…君は確か、セイラと旅に出るはずでは?」
「少し予定を変更して、な」
クラリスが憂いを帯びた表情でチラリとラビィを見る。彼女は目を真っ赤にして号泣していた。鼻を啜る音が聞こえる。それをライジルが宥めている。
「どうして、せっかく両想いになったのに…」
「泣くな。もう起きちまった事はどうにも出来ない…」
オロロンも声を上げて泣いていて、リックが腕の中であやしていた。そんな彼の目も涙で潤んでいた。
「ねえ、ウィル。本当に燈の事を忘れてしまったの?」
「…アカリ?」
聞き覚えの無い名前に、ウィルは首を傾げた。それが答え、と理解した四人は更に悲しい表情を見せた。彼らの様子に、ウィルはただ困惑した。
昨日まで体調不良でずっと部屋で休んでいたわけだが、その間に何か遭ったのだろうか、と心配になる。すると今まで泣いていたラビィが一歩前へ出てウィルのローブの裾を掴んだ。
「ウィル…この一ヶ月、ここには燈っていう子がいたんだよ。その子はここの仕事を一生懸命頑張ってくれて、ここ良くする為に案を出してくれて…ウィルの感情を取り戻してくれた子が…」
「……私の、感情を?」
ウィルには全く覚えが無かった。クレイスから感情を取り戻したのは一週間前の事。感情はこの場にいる仲間達と協力し合って取り戻したと記憶している。
そう、誰かの優しい手が、自分の感情を差し出してくれて―
『あなたの感情…これで私に本当の笑顔を見せてね…』
「……っ」
ラビィでもクラリスでもない女性の声が脳裏を過ったと同時に頭に鈍痛が走る。ウィルは思わず頭を抱える。
今の声は。聞き覚えがあるような気がするが、自分の知り合いにはいない。では、誰のものだ、と考えようとするが、頭の酷い痛みが、ウィルの思考を止める。
ウィルが両手で頭を抱えていると、クラリスがウィルとラビィの間に割って入った。
「今は駄目だ…! 感情が抜けたばかりだから、少し混乱している。もう少し、時間を置いてから話そう。もしかしたら、燈の事だって思い出すかもしれないから…!」
クラリスの言っている事がよく分からなかった。自分は感情を取り戻したというのに、彼女は何故”抜けたばかり”と言うのだろうか。しかし、頭痛のせいでそれを問う余裕は無かった。
それからまた何日か休みを貰ってから、仕事に復帰した。少し前までは紙の山で埋もれていた事務所は、皆の努力もあってすっかり綺麗になっていた。少しだけ書類が積まれている自分の席に着きながら、辺りを見渡す。
彼らは相変わらずそこにいて、昔よりは余裕を持って目の前の願いに集中出来ている。ラビィ達は変わらない笑顔で話し掛けてくれる。まるで数日前の悲しみが嘘だったようだ。
しかし、時折誰もいない席を見つめては、憂いを帯びた表情を見せる時がある。
それは、彼らの言うアカリが関係しているのだろうか。
後日築野専務に会う機会があってDREAM MAKER本社に行くはずだったのだが、彼が突然「こちらが行く」と言い、屋敷の事務所での打ち合わせになった。
築野が来た途端、ラビィとリックがそわそわし出す。リックは築野の事が好きなので分かるが、苦手だと思っているラビィまでそわそわするのは違和感があった。
いつものように応接室に呼び、築野に甘いコーヒーを出す。彼はコーヒーを啜りながら神妙な面持ちでウィルを見つめる。
「感情を取り戻して、気分はどうだ?」
「うん、良い気分だよ。皆の事を思えるようになったし、全く不自由していない」
「……そうか」
甘いコーヒーを飲んでいるというのに、築野の表情は苦々しかった。しばらく無言の時間が流れていたが、ウィルがそういえばと思い出したように話を切り出した。
「築野。アカリを知らないかい?」
「……何?」
築野の釣り上った眉がピクリと動いた。
「お前、思い出したのか…?」
「? …よく分からないけれど。ラビィ達が時折悲しそうな表情をするんだ。感情を取り戻したのに、その理由だけが分からなくて…そのアカリっていう人が関係していると思うんだ。その子はDREAM MAKERの社員だろう? 何か知っているかい?」
そう言うと、築野は一転して落胆した表情を見せた。また違和感。その表情の理由がウィルには分からない。怪訝そうに見つめていると、築野は首を左右に振った。
「…思い出していないのなら、いい。…それより、お前はしばらくDREAM MAKERに来ないでくれるか。用がある時は俺がこちらに来るから」
「何故?」
そんな事を言われるのは初めてだったので、ウィルは困惑してしまう。築野は忙しいのだから、こっちに来る事はなかなか大変なのでは、と言ったが、彼は自分の意見を曲げなかった。
「今のお前を見たら、柊がどんな思いをするか。…社員に辛い思いはさせられないのでな」
彼の口から出た新たな名前に、ウィルは更に困惑するしかなかった。
それから何カ月かして、ウィルが感情を取り戻した事は、ミレジカの国民のほとんどが知る事実となっていた。彼を哀れんだ表情で見つめる者は、もういない。誰もウィルを避けなくなった。トナマリの商店街を歩いていれば、色んな人から声を掛けられる。
何故だか女性に声を掛けられる事が多くなったのだが、その人達はラビィによってことごとく追い払われた。
周囲の人々に怯えられず、普通に話しかけられる事は幸せな事だ。それなのに、ウィルの心は何故か穴が開いているような感覚。取り戻したはずの感情だが、何かが足りない気がする。特にライジルとラビィがからかい合っている場面を見ると、その穴の大きさがよく分かった。
時間が過ぎてから、ラビィ達は少しずつアカリの話をしてくれた。一ヶ月間、ここで働いてくれた事。彼女がどんな人だったか。自分にとってどんな存在だったか。
彼女の話を聞くと、頭痛が酷くなるので少しずつ教えて貰った。どうやら自分はアカリの事が好きだったらしい。感情が無い中、アカリへの恋という想いを芽生えさせた。
そして、12年前の感情を取り戻す代償として、アカリへの想いは彼女自身によって奪われた。あのままどちらの感情を持っていたら、身が持たなかったらしい。
あの時別れを言ったアカリの涙を思い出すと、心が痛んだ気がした。これは、自分がアカリを好きだった名残なのだろうか。
今のウィルには涙を流すアカリしか思い出が無い。なので彼女の顔を思い出そうとすると決まって泣き顔なのだ。
胸にチリチリとした痛みを抱えながらレイアスの街を歩く。いつもなら飛んで用を済ませてしまうのだが、珍しくこの街並みを歩こうと思ったのだ。レイアスは白と青で統一された綺麗な街だ。
この街を歩いたのは、オロロンを探しに来た時以来だと思う。あの時はリックと二人で探し、オロロンの願いである亀へと手紙を渡す為に手分けして探した記憶がある。―いや、自分の肩に誰かがいたような気がした。一体誰なのだろうと歩みを止めて考える。妖精はセイラくらいしか知らないが、彼女と行動しているのは有り得ない。では誰が?
一人で考えていると、ふと頭上から暢気な声が降って来た。
「やあ、ウィル。久し振りー。感情を取り戻したんだってねー」
見上げてみれば、青い屋根の上に三毛猫のミケが丸まっていた。長い尻尾を器用に揺らし、金色の瞳でこちらを見下ろしている。
この猫は亀を探す際に道案内してもらった猫だ。随分マイペースで適当だったので、ウィルはよく覚えていた。
「あれ? 今日はあの子と一緒じゃないのー?」
「あの子?」
「ほら、妖精みたいな人間だよ。えーっと、あのー…何だったっけ? ……あれ? 忘れちゃったなー」
相変わらずのマイペース振りだ。いつものウィルだったらそのままスルーしてしまうが、今回ばかりは聞き逃せない言葉だ。思考するのを放棄した猫に、ウィルは口を開く。
「それは…もしかしてアカリの事かい?」
「あーっ! そうだ、燈だ!」
アカリの名前が出た途端、ミケは尻尾をピンと立てた。(身体は丸まったままだが)
ミケは懐かしみながら、アカリとウィルを案内した事を話してくれた。(時折突拍子も無いような事を言っていたが)
ウィルの記憶の中には、自分とミケ一人と一匹で亀の家に向かったはずなのだが、猫の記憶にはアカリがいた。ウィルが感じていた妖精の正体は、アカリなのだろう。
彼女が何故小さな姿だったのかミケに尋ねてみたが、彼の中のアカリは小さい人だったそうで、結局理由は分からなかった。
人間の姿や、小さな妖精の姿を持つアカリは随分と不思議な人物だ。
「んで、燈はどうしたのー? 今日は一緒じゃないのー?」
「彼女は…もう元の世界へ帰ったよ」
アカリが別の世界から来た事を伝えると、ミケは理解したのだか分からない適当な返事をした。
「ミケは…アカリを覚えているんだね」
「勿論! 僕が忘れるはずないでしょー! …ってあれ?もしかしてウィル…燈の事忘れちゃったの? わー、僕より忘れん坊だね。驚いた!」
「違う。アカリの記憶を無くしてしまったんだ」
「んー? 無くしたのと忘れたのは一緒じゃないー?」
ようやく起き上ったミケは、屋根の上からウィルの顔を覗き込んだ。こちらが悩んでいると言うのに、彼には知った事ではない。ミケはウィルを笑い飛ばしながら、こう言った。
「言っている事全然分からないけどー。忘れちゃったなら思い出せるんじゃない? 人の記憶って簡単に奪えるものじゃないからねー」
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