第1話 眠りの迷宮

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イェリスが母親の異変に気づいたのは、マリベスより2通目の手紙が届いてからのことだった。 その頃の母親は躁と鬱との差が顕著なものとなっており、一方からもう一方への変貌ぶりが余りにドラスティックなため、まるで二重人格者の様であった。 つまり、この時には既に母の精神疾患は、かなり重篤なものとなっていたと言える。 思い返せば、尋常ではない母親の姿が次々とイェリスの脳裡に浮かんでは消える。 要するに、その兆候は随分前から彼女自身、目にしていたと言う事になる。 イェリスは胸の疼きと共に、母の病気の発症に気づかなかった事を悔いた。 しかし、イェリスにとって母親の躁状態が、必ずしも全て悪いと言う訳ではなかった。 普段は決しておしゃべりとは言い難い母親が楽しそうにしゃべる。 マリベスに関する事の殆んどは、この発症時の機嫌のいい時に聞いたものである。 マリベスから最初の手紙が届いて間もない、日曜の朝、イェリスは簡単に家の中の片付けを済ませると、裏口より外に出ていつもの様に景色を眺めていた。 その辺りは丘陵地帯で、所々にある僅かな平地に住宅が点在している。 その中の一軒がイェリスの家であり、古いものではあるが、父親から譲り受けた唯一の財産でもあった。 何故、両親がこの場所を選んだのかイェリスは知らないのだが、そんな事はどうでもよかった。 彼女はここからの眺めが好きだった。 眼下には海峡が見える。 麗らかな春の陽射しが、その水面で弾ける様に煌めいている。 そして、その向こうにはやはりこちら側と似た様な丘陵が3つ4つと連なっているのだが、違いは更にその向こう側に大きな街並みが見えると言う点だった。 その街は、国の商業の中心都市であり、手前が新市街その奥の一段と賑わいがあるのが旧市街である。 そしてキッチンの窓から見えるこの街の夜景が、夜毎にイェリスを幻想世界へと誘うのだった。 「マリベスの事…」背後から母が唐突に話し掛けて来た イェリスが驚いて振り返ると、母はすぐ斜め後ろに立っていて、同じ様に遠くの景色を眺めていた。 「マリベスの事よ…本当に覚えてないの?」と母は改めて聞いて来た そこでイェリスは、全く覚えていないのではなく漠然とした記憶はある、と応え、更に「それに、この前、お母さんからマリベスの話を少し聞いて、ちょっとずつだけど思い出しそうな気がするの」と付け加えて言った。
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