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父親がイェリスの元を去ったのは、彼女がまだ5歳の時の事である
従って彼女には父親との思い出が殆んど無かった
そんなイェリスの記憶に僅かに残っているのが、物静かで優しかったと言う漠然とした印象とその笑顔…
それともうひとつ
何故か分からないのだが、幼い自分が父の肩の上にゆらゆら揺れながら立っている姿を朧気に、しかし繰り返し思い出すのだった
それは肩車の様に、肩の上に乗っているのではなく、二本の足で正に立っているのである
更に不可解なのは、その姿を思い出した時、自分の周りに人が沢山居たり、誰も居なかったりと、記憶の中の情景が一定していない事だ
但し、この話は彼女が周囲の大人達に再々話し続けて来たものであり、今ではそれが彼女の実体験の記憶なのか、それとも幼少期に造り上げられた妄想なのか、彼女自身にも判らないと言うのが本音であった。
しかし彼女が自らそれを認めてしまえば、唯一残された父親との絆が断ち切られるばかりか、その父の存在さえも否定されかねない、彼女はそうなることを本気で怖れていた。
何故なら、彼女にとって思い出とは、切り取られた過去の断片ではなく、今、この瞬間、
ここに存在している自分を説明する重要な要素の一つであると考えていたからである。
要するに、イェリスは思い出、それに準ずる記憶の他は何も彼女の存在を明示するものを持っていないと言う事なのだ。
だからこそ、些細なものであっても思い出は蔑ろに出来なかった。
つまり、イェリスは自分が何処の誰で何をして来たかと言う、第三者に示す(有形無形の)指標の類いのものを一切持っていない、社会からはみ出た存在なのであった。
そして、社会も彼女を体よく黙殺した。
更に、父親と共に過ごした記憶の殆んどないイェリスは、ともすれば存在そのものを社会に認知される事のないままずっと生き抜いて来たとも言える
ある程度の年齢になるまでは、それが普通だと思っていた、その様な幼い頃の自分を思うと、イェリスの胸は疼く
悲しいと言う感情を抱く事すら出来なかった自分が余りにも憐れで、そう思うと皮肉にも今更ながら悲しくなるのだった
ふと、反対側の窓の外に目を遣ると、いつの間にか、東の空が重々しい黒から、少し青みがかった薄めの紺に変わっていた
夜は確実に明けつつあった
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