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イェリスの異変に最初に気づいたのは、すぐ前の席に座る20代前半の男だった。
その男が始発のバスターミナルで乗り込んだ時、既にイェリスは席に着いていて、特に変わった様子は窺えなかった。
それよりも寧ろ、視線が合った瞬間に彼女が少し微笑んで来たので好印象を抱いたと言う事だった。
「そこで何か話し掛けるきっかけはないものかと考えていたんですが、残念ながら…」若い男がここまで話したところで、君の話はいいからと救急隊員が遮った。
「倒れる前の彼女の様子を教えて欲しい」と隊員は改めてその男に言った。
「だから今その話をしようとしたのに」と男は不服げな様子で再び話に戻った。
その男の言うには、バスが出発して間無しに後ろの席から話し声が聞こえて来たので、てっきり連れがいたのだと思い込み、それが男か女か確かめようと耳を澄ませていたらしい。
「もし男だったらそれまでの事、逆に女だったら俺が友達を呼べば…」ここで男は救急隊員の刺す様な視線に気付き慌てて「それが独り言だったんですよ」と言って話を本線に戻した。
それから、独り言の声は次第に大きくなって行き、終には窓に頭を打ち付けて泣き始めたのだと言う。
「声をかけるだなんてとんでもなかった」と話の最後に付け足す様に男は言った「気味が悪かったですよ、あの女…」
その男の言う通り、イェリスの独り言の声は相当大きかった様で半数以上の乗客が耳にしていた。
泣き声に至っては、ほぼ全員が聞いていた。
どうやら、イェリスが感心して止まない物静かで秩序を守り統率を乱さない人達の中にあって、皮肉にもその静けさを破り秩序を犯し統率を乱したのがイェリス自身に他ならなかった様である。
頭痛が治まると、イェリスは再び橋の上を母の立っている方へと歩いて行った。
近づくに連れ、その気配の異様さをイェリスは肌で感じ取った。
母を中心にその回りだけが切り取られた小さなひとつの空間となっていた。
その閉ざされた空間には外部からの空気の対流はなく、空間全体が次第に希薄になって行っている様にイェリスには見えた。
周囲の誰一人として、母に気づいてなどいないようだった。
母は本当にそこにいるんだろうか?
そして、私は今、何処に迷い混んだのだろうか?
今、イェリスは母のすぐ横に立っている。
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