第1話 眠りの迷宮

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左手に川を挟んで見えるコンビナートも、やがて建物が疎らになって行き、空き地が目立ち始めた その背後の西の空は、深い深いどこまでも深みのある、濃い紺色へと変わっていた 突然、父親が母と自分を残して、帰国したことの意味をイェリスが完全に理解出来たのは、ずっと後年になってからのことである 但し、現実は待ってくれはしない 結婚を機に、それまで勤めていたホテルを辞めた母は、その生活の糧の全てを父に頼り切っていたため、忽ち明日の食い扶持にも困る事となった よってイェリスの生活も否応無しに激変する 母は母で慣れない勤めに必死だったのであろう、まだ年端のゆかぬイェリスに出来る限りの家事をさせようとし、イェリスはイェリスで、実際に数年の後には、その一切を一人でこなせる様になっていた 要するに、二人が表立って協力する事は滅多とないのだが、各々が精一杯の力を出す事で、結果的に支え合っていた。 そして、お互いがお互いを唯一人の身寄りであると、充分承知をしながらも母と娘の間には、いつしか目に見えない溝が生まれ、ひと度出来た溝は二人の意思とは無関係に少しずつ、しかし確実に深く刻み込まれて行くのであった 父親と離れて暮らす孤独な少女が、いつしか妄想の中で父の面影を追い始める 現実での日々の生活が苦しければ苦しい程、妄想の中で出会う父はより優しく微笑み掛けて来る それは無理からぬ事であろう 優しい笑顔の父、肩の上に立った思い出も、大雑把に言えばこの時期のものだった 左手に見えていたコンビナートは、もう既に通り過ぎていて、徐々に街並みが姿を見せ始めてい た そして、その背後に広がる、西の空は更に淡くなりながらも、透き徹った湖の底を覗いている様な一段と深みのある紺色となり、静かに朝の陽光を待っていた
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