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新市街では黄昏を一旦受け入れた後に、ゆっくりと夜の幕が開いて行くのに対し、旧市街の夜は待ったなしだった。
それぞれの夜が次々と勝手に始まって行く、正に雑然と。
そして、その様々な夜の集合体が旧市街の夜である。
それは新市街の整然とした時の流れと比べると、明らかに捉えどころのないものであり、時の概念そのものすら違う様に思われた。
イェリスはララに視線を戻す。
しかしララはイェリスには気がつかないのか、それとも敢えて気がつかない振りをしているのか、黙ったまま眼前に広がる日の暮れた暗い海をみている。
イェリスはロウソクの灯った暗い部屋の事、旧市街の朧気な記憶等、釈然としない幾つかの疑問を母に質してみたいと思っていた。
しかし母がイェリスにその様な暇を与える事はなかった。
突然のことである。
ララは欄干に片方の足を掛けると一気にそれを乗り越えようとした。
「ララ!おかあさん!!」叫ぶと同時にイェリスは入る事を逡巡していた母の居る空間へと飛び込んだ。
その瞬間、周りの音が遮断される。
代わりに聞こえて来たのはイェリスの知っている例のくぐっもった音ではなく、もっと低いうなり声の様なものだった。
それはまるで街全体がイェリスを威嚇しているかの様に彼女の耳には響いた。
しかしイェリスは怯む訳には行かない。
「行かないで」そう言うと彼女は欄干の上に乗り上がろうとしているララの左の
手首をしっかりと掴んだ。
激痛がイェリスの頭を襲う。
頭が割れそうなほど痛む。
ララが左手首を掴んで放さないイェリスの手を振り解こうとしている。
「行っちゃあ駄目!」激痛の中、イェリスは力を振り絞った。
自分の手を振り解こうとするララの左手首を強く握りしめ、逆に思い切り引き寄せた。
ララはと言えば、欄干を越えようと跳び上がり、両腕の力で全身を支え右足を右手の辺りの欄干に引っ掛けたところで、支柱となっている二本の腕のうちの左手を引っ張られたのである。
当然の如く彼女はバランスを崩してしまい、その結果イェリスのすぐ横に落ちる様に飛び降りるより他はどうしようもなかった。
その際、地面に降りた時の反動で、ララの上半身は前に大きくつんのめった。
それは遠目に見ると、まるでララがイェリスに対し深々と頭を下げているかの様な絵図だった。
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