第1話 眠りの迷宮

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私は夢なのか それとも、目の前の世界と私は無関係なのか はたまた、夢もうつつも、そして私も取るに足らないものなのか 様々な声が頭の中で反響を繰り返す やがて耳鳴りが始まる 更に周波数が上がる 耳鳴りがそれに呼応する 夕飯の後片付けをすると言い張る母を強引にソファーに座らせて、イェリスはいつも通り最後に流し台をきれいに拭いて一日を終えた。 母に目を遣ると、椅子に掛けたまま静かに本を読んでいる。 これほど落ち着いた様子の母を見るのは、何年ぶりの事だろうか まるで先ほどのイェリスの言葉など、聞かなかったかの様だ いや、寧ろ、あのやり取りで逆に打ち解けたのかも知れない なにしろ、話らしい話をした記憶がないのだから 確かに、父が姿を消した当初、母は父をひどく恨み、イェリスの前でも毎日の様に汚ない言葉で父を罵っていた。 更にイェリスには家事を強要し、厳しく当たる事もしばしばあった。 しかし、思い返せば、これらは全て最初の数年の話であって、それ以降はイェリスが心を閉ざしてしまったのだった それから先は、ずっと長い夢を見ている様な気がする 従って、母に遠慮して、とか気を遣ってと言うのは口実で、やはり自分は母を避けていたのだ、とイェリスは改めて思う。 しかし、いざ話そうとしても、話題すら思い浮かばない。 そもそもイェリス自身、まだ大人と共通の話題で会話が出来る様な年齢ではないのだ。 大人びて見えるのは、単に母親への反抗心によるもので、亦そうする事で世間全般に対しても無意識の裡に予防線を張っていたとも言える。 但し、同時にそれは本人の孤立を意味し、そして感受性の強い年頃であったにも拘わらず、その傷つき易い精神を、結果的には自らの手で圧迫し異形のものにしてしまったのである。 キッチンの窓から遠くに浮かぶ街の夜景を暫く見た後、イェリスは母の方を振り返り 「私はおかあさんの様にはならないから心配しないで」と言い切った 母親は黙ったままイェリスの顔を見ている 「私はおかあさんの様に男の人に頼ったりしないから」イェリスは追い討ちをかける様に言う「だから私に王子様なんて必要ないの」 そこ迄言うと、イェリスは自分の部屋に入ってゆき、その夜は二度と出て来なかった。
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