新世界

7/7
319人が本棚に入れています
本棚に追加
/69ページ
 男はこちらをじろじろと、舐めるように頭から靴まで目線を下げ、再びお互いの視線が交わる所まで戻ってきた。  不意に、彼がにやりと笑う。笑顔が見えたことに本当にほんの少しばかり安堵、同時に不安を憶えながらも引き続きコンタクトを試みる。 「あっ、のーですね。あ、改めて、突然お訪ねしてしまいすみません。僕の名前は───」  そこまで言いかけた時、突然ある臭いが鼻をついた。先程目覚めた所からここに来るまでには感じなかった臭い、しかしこれまで生きてきた中で必ず嗅いだことがある臭いだった。臭いの源は開かれた扉の先、恐らく男の直ぐ背後にある。  男の腕と腹の隙間から、仄暗い家の中が見えた。赤いカーペットの敷かれた廊下が続く。他の部屋に続くだろう扉は、その内幾つかは開かれたままで、また一部は破壊されている。そして、廊下の先にもう一つの人影。髪の薄い男だ。今目前に居る男と同じような格好をしていて、目をかっ開き、こちらを見ている。その表情から読み取れる感情は、驚愕。右手には、剣。 「───え、ぁ」  その男の傍らには小さな机があり、その上にある四角い花瓶が横倒しになって転がっている。口が机の縁から飛び出してしまっているせいで、中の水は殆ど零れていた。後には、ぽたり、と残り僅かな水が雫となって滴っているのみである。雫の落ちた先を何の気なしに辿った。水滴は机の下にある何かに当たって、音もなく弾ける。  机の下の何か、それは紛れもなく人だった。誰かが倒れているのだ。赤い服を着ている。うつ伏せになっているせいで顔は見えないが、何かがおかしい。倒れた人影に焦点を合わせる。だが倒れたまま動かない。ただ寝ているだけならそれで良い。でも定期的な背の浮き沈みすら見て取れない様は嫌な想像を掻き立てる。  カーペット、そして倒れた人物の着る服が赤い色をしていたのは何故だ。  やけに静かだ。さっきまで喧しかった背後の吠声も嘘みたいに聞こえなくなった。ボーっとしている時の様な、周りの音が聞こえているのにその内容が理解し難い感覚。現実味の無い眼前の状況を理解しきれず、感覚が鈍くなっている?  そっと、目の前の男に視線を戻した。顔はとても見られなくて、自然に彼の腰辺りを見る。良く良く見るとその指先は紅に染まっていて。剣の柄には、男のものであろう指紋が赤く浮かんでいる。おもむろに、手が、柄に掛かる。 「ひ」  家の中で起こったのであろう惨事の情景を想像する前に、瞬時に踵を返して駆け出した。  やばい。 やばいやばい。どう見たってあれは、臭いは、血だ。人殺しだ。見てしまった。スマホも繋がらない人気の無い山中、そんな犯罪に好条件の状況で目撃者を彼らがどうするのか、考えるまでもないことだ。  あの男達は何だ。強盗か、ただの人殺しか。何であんなことが起こってしまったんだ。日本って安全な国じゃなかったのか。人の痕跡を見つけて安心だなんて馬鹿みたいに浮かれて。散々だ、一抹の希望を持ってここまで来て、その結果がこれか。  気付けば世界に音が戻っていた。先程と変わらず吠えまくっていた犬には目もくれずに、この場所に至るまでに来た道を外れ林の中へ飛び込んだ。枯れかけの植物は腰辺りまで生え、疎らにある小さな木々の細かい枝が丁度頭の辺りに飛び込んでくる。顔を庇うため右手を翳し、体を前傾気味にさせながら走る。いつの間にか靴とズボンの裾の間の肌を何かで切った様で、キリキリと痛んだ。 「はっ、はっ、はっ、はっ!…はぁっ!……おぇぇっ」  恐怖、緊張、疲労。様々な要素が重なった故の激しい拍動が胸を揺らす。不意に嘔吐感が襲ってきて嘔吐く(えずく)が、無理矢理に苦味と痛みごと飲み込んだ。今の状況は体育の授業とは訳が違う。地面は積もった落ち葉と腐葉土のせいで足の掴みが悪く、運動場のようにレーンも無ければ、ゴールだって存在しない。だがどんな状況だろうが止まる訳にはいかない。果てもなく逃げ続けるのだ。 「ao!mufiremi!」  怒号と共に、男達が自分と同じ様に草木を掻き分けやってくる音が聞こえる。何と言っているかは不明瞭で良く分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。やはり奴らが追ってきているではないか。追い付かれたその時、あの家で倒れていた人のように惨たらしく殺されるに違いない。  剣で斬られたら、どうなる。馬鹿、想像しちゃいけない。そう思ってもビジョンは頭の片隅から思考を侵食していく。  追いつかれて、ずばっと背中から血が噴き出て、地に倒れる。地面に顔から突っ込んで、顔を擦りむきながら土や枯葉を食うことになる。まだ息がある事に気付かれて、二度切り付けられる。息絶えた後そのまま打ち捨てられ、体が冷たくなっていき、末には意識が消える。記憶も消える。家族が、友人が、知人が、思い出が自分の中から消えていく。今感じている疲労や不安、死への恐怖。それすらも感じられなくなるのだろう。では、最後に残るのは? それは多分、孤独感。  嫌だ。死にたくない。こんな所で訳も分からないまま死んで堪るか。  何処へでもいい、逃げるんだ。もっともっと遠くへ。アイツらの居ない所まで。
/69ページ

最初のコメントを投稿しよう!