昔話

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一六一〇年。 灼熱の大気が江戸の町を駆け抜け、追われる町民はなす術もなく、一人また一人と炎に呑まれていく。 「いやだ…!! 死にたくねぇ…!! まだ死にたくねぇよぉ!!」 「子供が!! 子供が中に残されてるんです…!! 誰か……誰か助けてぇ!!」 「奥さん諦めろ!! あの家はもう駄目だ!!」 「おかぁちゃぁん!! あついよー!!」 人々は泣き叫び、躓きながら逃走する。中には気が触れてしまったのか、 「あは、あはは…はははは…!!」 と、笑いながらよろよろと歩く者までいる。その顔は狂気に満ちていた。 家を焼き崩し、人々を無慈悲に呑み込んでは炭として吐き出す。けたたましく喚く馬が、喧騒に拍車をかけていく。 巨大な竜のように暴れまわる炎の塊が通ったあとには、炭と灰、文字通りの焦土が広がるばかり。 そんな阿鼻叫喚の地獄絵図と化した江戸の町に、一人の少年が佇んでいた。 「…………」 ただただ呆然と、今何が起こっているのかわかっていないような顔で、死にゆく町を眺めていた。 傍らに倒れ、息絶えた男に目も向けず、ぽかんと口を開けて直立不動。 少年の瞳に命の重さは映っていない。焼け死ぬ人も暴れる馬も、同い年の子供や敬愛すべき老人も。 「…………」 そんな少年は静かに佇む。 一本の刀を抱き締めて。
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