276人が本棚に入れています
本棚に追加
甘酸っぱい香が、口いっぱいに広がる。
「だがここは、お前の故郷だ。お前が生まれた、もう一つの故郷だ」
枇杷をかじる父の視線は、まっすぐに鎌倉へと連なる道を見ていた。
「お父達が昔お世話になった方に、私はお仕えするのでしょう?」
その名を、この道中では口にするなと、父に硬く言われていた泉は、そんなふうに言ってみた。
「そうだ。この鎌倉には、私やお前の母の恩人でもあり、大切な方々がいらっしゃる」
父の言葉に、泉は顔を上げた。
「忘れるな、泉。ここはお前と私達のもう一つの故郷でもあるのだ」
泉に言い聞かせるように、父は言った。
泉にとって、「故郷」とは木曽のことだった。
四方を山々に囲まれたあの里が、泉が知る世界であり、あの場所で自分は生きていくはずだった。
最初のコメントを投稿しよう!