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「ハンカチだけじゃ足りないので、これで拭いてください」
「え、……いや、いいです」
「かけるだけでもいいので」
エンジンをかけながら背広を手渡す。
彼女の服はびっしょり濡れていて、すぐにでも乾かさないと風邪を引きそうだ。
車を発進させると、観念した彼女はカーディガンを脱ぎ、俺の背広をやっと羽織った。
その様子を盗み見ながら、俺は何かが自分の胸をざわめかせたのを感じた。
彼女の今日の格好は、大人っぽく、キレイめな紺のワンピース。
こういう姿を見るのは、もちろん初めてだ。
そして、半分雨で取れてはいるものの、目元や口元に、いつもは無い色香というか、艶っぽさ。
おそらく、入念に化粧を施して……。
そこまで考え、それが今日のこの約束のためのものだと思い至ると、隣に座って、ずれる俺の背広を何度も肩に上げながら、所在なさげにしている彼女が、とてもいじらしく、可愛いらしく思える。
そして、同時に生じる、多大なる申し訳なさ。
「緊急の仕事でした。
通常、土曜は早めに上がれるのですが、顧問先で急遽問題が発生して、税務調査も入ることになり、先程までその会社の社長と……。
……と、言ったところで、言い訳ですね。
すみませんでした」
素直に、心から謝る。
そして、連絡を入れようにも連絡先が分からず、電話ができなかったことも。
「いえ……、こちらこそ取り乱してしまって、すみませんでした」
運転しているので前を向いているが、彼女がしっかりこちらを見て、深々と頭を下げたのが分かった。
「道野さんが謝る必要はありません。
自分から言っておいて大変失礼なことをしたのですから、もっと罵倒したり罰を与えたりしてもいいですよ」
ここまで待たせ、雨に濡らせてしまったのだから、そうでもしてもらわない限り、こちらの方が気が済まない。
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