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その朝も、健一はいつものように心地よく目覚めた。若い頃と違い、まだ、息子夫婦や孫が眠っている日の出の頃には目が覚めてしまう。隣に眠る妻の幸枝はまだ眠っているようだ。健一は妻の布団の中に手を入れた。そして、いつものように優しく妻の手を握った。握ってハッとした。冷たかった。
健一は妻を見た。妻は静かに目をつぶり眠っているように見える。いつか、この日が来ることを健一自身も妻も覚悟していた。お互い高齢になり、そう遠くない将来、いずれかが先に旅立たねばならないだろうと話し合っていた。健一は目覚めることの無い妻の唇に最後のキスをした。
「ありがとう。今まで本当にありがとう」
そう呟いた。
以前、就寝前の布団の中で話したことがあった。
「幸枝、いずれ私達に別れの時は来るのだろうか?」
「来るでしょうねえ。どちらかが先に行かなければならなくなるでしょうねえ。死ぬ時は一緒には無理ですもの」
「嫌だな。その時が来なければ良いな」
「そうですねえ。」
幸枝は隣の健一を見た。
「あなた、もし、私達のいずれかが先に亡くなったら…」
「考えたくないな…」
「いや、もしもですよ。もしも、先に亡くなったら、最後のキスをしましょうよ?ね、いかがですか?」
その時に妻と約束した、夫婦の最後の別れの儀式を健一はしたのだ。
若い頃、初めて出会ったダンスホール。子供が生まれ、親子3人で行った熱海で見た花火。
―あの頃の二人はまだ若かったな。それからの長い歳月、山も谷もあったな。二人だから乗り越えられたのかな?―
健一は幸枝の冷たくなった頬をなでた。
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