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入学式の事は、あまりよく覚えていない。
付き添いの親たちの香水の匂いが、耐え難かった記憶だけはあるけれど。
初めての教室では、自分の席が、中央の列、前から2番目だったので、座高の高い私は、自分の後頭部ばかり気になっていた。
右隣には那奈がいた。目が合うと、那奈は「よろしくね」と言った。
私が使ったことのない挨拶の言葉を、屈託もなく発する那奈に、私は何も話せず、ただペコリと頭をさげた。
私だけだろうか。初対面に限っては、男子より女子相手の方が緊張する。
担任がクラスの出席をとった。
太田正義。
担任が4番目に発した生徒の名前。
同じクラスだったんだ。
てか、同じ学校だったんだ。
去年の夏祭りの記憶が蘇る。
そうこうしているうちに自分の名前が呼ばれた。
か細すぎず、かといって張り切りすぎず、無難な声色を意識しすぎて、結局かすれ声になるというパターン。
きっとどうって事ないって頭で分かってても、背中は架空の視線で熱くなっている。
右側から本物の視線を感じたので、ちらっと目をやると、那奈がニヤリと口角だけ動かして笑い、真顔で真正面を向いた。
からかわれた!!
夕夏がそう思った矢先、那奈は声を出さずに、大きく口を動かし始めた。
あ…発声練習…
那奈は、口パクで発声練習をしていた。
あーえーいーうーえーおーあーおー
間違いない。
そして、担任が言った。
「澤崎那奈さん。」
「ハイ。」
夕夏はうつ向いて笑いをこらえていた。いや、笑ってしまっていた。
那奈の見事な裏声の返事のために、夕夏の背中と後頭部の熱は、いつの間にか腹部に移動していた。
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