正しい背中の流し方

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証の声は怒ってはいなかった。 ただどこか諦めにも似た、静かな落ち着いた声だった。 柚子の手を離し、ザッと立ち上がる。 そうしてドアの手前で一度、冷めた瞳で柚子を見下ろした。 「背中の流し方教えてやっただけなのに、勘違いして一人でよがってんじゃねーよ」 そう言い捨てると、証は座り込んでいる柚子を残し、静かにバスルームを出て行った。 「……………っ」 柚子は濡れた体をぎゅっと抱きしめる。 色んな感情が胸に溢れ出し、堪え切れずに柚子はその場に突っ伏して声を殺して鳴咽した。 ※※※※※※※   何分ぐらいそうやってうずくまっていたのか、柚子はわからなかった。 ようやく涙も収まり、ゆっくりと顔を上げる。 顔を上げると、鏡に映った自分の顔が目に飛び込んできた。 (…………ひどい顔………) 目は泣き腫らして真っ赤で、濡れた髪が頬に張り付いている。 ビショビショの証のワイシャツが、乱れて腰の辺りに纏わり付いていた。 (証に……謝らなきゃ……) シャワーを頭から浴びながら、柚子はようやく冷静さを取り戻していた。 落ち着いて考えてみて、どう考えても自分が悪い。 始めに時間を守らなかったのは自分。 そのことで証を怒らせ、ああいう行為をさせたのも自分。 ………そして、こういうことをされることも含めて、自分はこの奴隷生活を選んだのだ。 それを忘れて逆上し、証に手を上げようとしたあげく悔しさで謝罪することすらできなかった。 バスルームを出た柚子は、どんな顔で証に会えばいいか考え込んでいた。 ただとにかく平謝りに謝るしかない。 それに何より、怒りもせずに静かに出て行ったことが引っ掛かっていた。 意を決して脱衣所を出た柚子は、そろっと窺うようにリビングを覗いた。 リビングには証の姿はなく、柚子は次に寝室へ向かった。 だが寝室にも証はいない。 (……………証?) 柚子は慌てて玄関へと向かう。 そこに証の靴がないのを見て、柚子は力なくその場に腰をついた。 (…………出てったんだ……) 気が抜けたのと同時に、大きな不安に襲われる。 五十嵐の言った言葉が、不意に脳裏に蘇った。 『証は、嫌いな人間とは一緒に呼吸すらしたくないという人ですから』 サッと顔から血の気が引いていく。 (………もしかして、本気で私、愛想つかされちゃった……?)  
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