閑 話:吉田稔麿という男

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その日、一人の男が生い茂る竹藪の中に足を踏み入れた。 旅装束に身を纏い、笠を被る彼こそ、長州藩きっての重要人物、その名も桂小五郎。 桂はある民家の前で足を止めると、「邪魔する」と言って中に入っていった。 生活感の感じられない空間は、空き家と勘違いしてしまいそうになる。しかし、ここに『奴』が居るのだ。 そして奥の部屋の襖に手を掛けると、中から… 「誰だかは知らないけど、別に入ってきてもいいよ?死んでも構わないならね」 不穏なセリフに気だるそうな口調、けれどどこか楽しげな様子の若い男の声がした。 「……稔麿。私だ…桂だ」 一言名乗って襖を開けた桂に、目の前の男は意外そうな顔をした。 やや垂れ目がちの整った顔つきは、端から見ればただ優男にも見受けられる。しかし、眼光の鋭いその瞳のおかげで、酷く禍々しい雰囲気を醸し出していた。 彼の名は吉田稔麿。 吉田も華乃達と同様、松陰を師と崇めた松下村塾の門下生だった。 「…こんな辺境までわざわざ来るなんて、貴方も物好きだねぇ。………どうして、この場所が分かった?」 「…晋作から聞いたんだ」 華乃の前から行方を眩ました吉田だったが、唯一高杉とだけは連絡を取り合っていたのだ。 「ふぅん…高杉さん…ね。…あの人も余計なことをする…」 くつくつと喉奥で笑う吉田に、桂は微かに眉をひそめる。 「ふふ…、怖い顔、だ…。僕が恋しくて来た…って、感じじゃあなさそうだね。用件は何?」 「先刻…私の預かり知らぬところで、長州の一部の人間が御所に攻め入ろうした…。………お前の差し金だろう?」 「…へぇ、なぜ僕だと?」 「仲間を捨て駒扱いするのは…稔麿、お前ぐらいだ」 「………」 「今回の襲撃は実に無意味なことだった。戦力も無いに等しいうえ、更に計画性もない。誰かが焚き付けないかぎり、あんな事態は招かなかった筈だ」 「焚き付ける…ねぇ…」 吉田は意味深に笑い、底知れない妖艶な瞳で桂を見据えた。 そして、弧を作っていた唇をゆっくり開く。 「ねぇ…桂さん…。いったい向こうは何人死んで…………こっちは何人…殺された…?」  
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