第1話

23/32
前へ
/32ページ
次へ
その翌週、航平は3週間ぶりに練習に参加した。 いつも思うのだが、彼はグラブを手にすると、本当に嬉しくて仕方ないという笑顔を見せる。 俺が指導者を志したのは、こんな風に野球を好きな子供たちに、厳しいだけじゃない、野球のおもしろさを教えたいと思ったからだ。 だから、俺は休みがちな航平を気にかけていた。 そこには、何か予感めいたものがあったのかもしれない… その日の練習には、初めて母親が同伴していた。 そう、河原で会う『彼女』だ。 練習が終わり、俺と彼女は教官室に入った。 小さな窓からは、コーチたちとグラウンドで遊ぶ航平のはしゃいだ笑顔が見える。 「航平は、産まれた時から心臓に疾患を抱えていて、長くは生きられないと言われているんです」 彼女は、そんな息子の様子を眺めながら静かに話し始めた。 「1歳までは生きられないと言われながらも、手術を重ね、奇跡的に誕生日を迎えることができたけれど、それからすぐに主人に癌が見つかり、あの子が2歳の時に亡くなってしまい… いつ倒れるかわからないあの子を抱え、途方に暮れた私は、航平を道連れに死ぬことも考えました。 そんな時、一人の医師に出会ったんです。 彼は航平のことを聞いて、自ら主治医に名乗り出てくれました。 そして、あの子に野球という夢を与えてくれたんです。 まだその頃3歳の航平が、その医師とテレビで野球を観るうちに、みるみる明るさを取り戻していくのを見て、私はもう一度この子と頑張ろうと思えるようになったんです… でも、今年に入って、あの子は3度目の命の期限を切られ… それでも、野球で甲子園を目指せるか?というあの子の問いに、私は『必ず目指せると』と嘘をつきました。 いつだって、誰よりも自分の死に敏感になっているあの子だからこそ、私はその嘘をつき通すのがつらくて… 私はあの子にこれ以上ありもしない『希望』を与え続けていく自信がないんです。 野球をやるあの子の笑顔を見ているのがつらいんです…」 話しながら、何度も目頭に手を当てる彼女の細い肩が震えているのを、俺はただ黙って見つめていた。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

48人が本棚に入れています
本棚に追加