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人生という大きな枠があるとして、その枠というものを、たとえばアルバムのようなものだと仮定する。
となると、必然的に記憶というものは写真というものに置き換えられるのだろうが、私の人生というアルバムには、写真がほとんどない。
むしろ、皆無と言ってもいいだろう。
なくしてしまったのだ。
事故とともに、私の写真たちはどこかへ散らばってしまったのだ。
こういった話を他人にすると、たいてい私は気の毒そうに見られてしまうが、別段私自身が困り果ててしまったり、悲しくなったりすることはない。
なくしてしまったものは仕方ない。
新しい写真をアルバムに貼るのみである。
このあっけらかんとした性格が功を奏してなのか、私の記憶がなくなる以前からの友人は多く、事故後に何人もの人が私の病室に訪れた。
初めの頃こそ彼らも、「何かの冗談だろ」「新しい遊びか?」とあきれ半分、遊び半分でいたものの、どうやら私の記憶喪失が本物らしいことに気付き始めたあたりから、彼らはやたらと私に構うようになった。
中学時代の思い出話や、小学校の頃のくだらないケンカの理由など、面白おかしく聞かせてくれるのは構わないが、どうも彼らは話を面白くしすぎる傾向にあるらしく、事実を三割増しにした話ばかりであった。
笑い話にとどまることもあれば、あきれを通り越して引いてしまうようなオチを持ってくる友人もいる。
私はそんな彼らが大好きだ。
どうも私は、人を引き付けたりまとめたりするのがうまいらしい。
その点に関しては、記憶を失った今も、失う以前も変わることはなかったそうだ。
しかし、記憶を失いながらもこれほどまでに落ち着き払っている私だが、一つだけ、気がかりなことがある。
気がかり、というか、心の隅に引っかかっている、とでもいうべきか。
喉の奥に刺さった魚の骨のような、そういった感覚がずっと残っている。
その感覚を呼び起こしたのは一枚の写真だった。
友人たちとの、おそらく中学生活最後の集合写真。
そこには、記憶を失った後には一度も会ったことのない男が一人いた。
どうも私は、その男が気になって仕方なかったらしく、いつのまにか探偵よろしく友人たちに聞き込みを始めていた。
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