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「さて、と。
何飲まれます?
今日はご馳走しますよ」
いっちゃんがむつみに微笑んだ。
暫く黙っていたむつみが所在なさげに視線をいっちゃんに送り、「またにするよ」と呟く。
すると、いっちゃんは微笑んだまま辛辣な言葉を吐いた。
「ったく面倒くさい女だな、あんた」
むつみが動きを止めた。
唖然としていっちゃんを見つめる。
俺も驚いて、ポカンと彼を見た。
はあ~と大きくため息を吐いていっちゃんは続けた。
「俺は、森川さんの部下だから。
仕事上でのあんたの意見は正しいと思うし、あんたの観察眼も信頼してるけどさ」
いっちゃんの仕事用の穏やかな笑みが、いつのまにか普段の顔に変わっていた。
「ただ仕事を離れたら、あんたはただ単に親友の彼女で、俺の友人なんだから遠慮はしないよ。
お互いの立場とか気持ちとか、そんなのは俺の知ったことじゃないから代弁する気は更々ないけど、言わせてもらうなら、森川さんがしたことは間違ってるよ。
終わらせるなら、きちんと終わらせないと。
じゃなきゃ、お互い辛いだけっしょ?」
色男は感情を出すこともなく、淡々と言う。
「私情を挟むなら、俺はこの三ヶ月間、陽がどれほど苦しんだかも、どれほど努力したかも知ってるからね。
あんたは俺に情報を流すなと釘を刺したけど、
用意周到なあんたと違って、陽は丸腰で放り出されたんだ、俺が陽の肩を持っても文句言えないっしょ?」
むつみも俺も、いっちゃんに何も返せなかった。
カウンターの内側に佇んだまま動けない。
「俺が陽にここで働けと誘ったんじゃない。
陽が俺に頭を下げてきたの。
面会も拒否されて、まるで打つ手がない陽に、些細なチャンスを作った、ただそれだけ」
そこまで言うと、いっちゃんは俺に視線を移した。
「ま、しっかり話すこったな。
飲み物、好きなように作っていいよ。
つまみも適当にやってくれ。
管理があるから、作ったもんだけ控えておいて。
それから、これ」
いっちゃんはカウンターに鍵を一本置く。
「施錠は任せたからな。明日返して」
そう言って立ち上がり、お疲れさまでしたとむつみに頭を下げて、スタッフルームに消えていった。
揺れる振り子時計の音だけが、俺たちの間に流れた。
俯くむつみを俺はただ眺め、むつみはカウンターの上で組んだ両手をじっと見つめている。
着替え終わったいっちゃんが、微動だにしていない俺たちを見て肩をすくめた。
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