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再び歩き出し、彼の手がそっと触れる。
少し躊躇う様子の指先を握りしめると、彼は申し訳なさそうに小さく笑った。
「……帰国するまでの間は、俺のところにいてよ。」
「……。」
「急にいなくなったら、今度は俺が変になりそうになる。その間に少しずつ、気持ちの整理をしていきたいし。」
本当は、慶子さんのところに行こうかと考えていた。
留学中もお世話になっていたし、彼女なら間違いなく受け入れてくれるだろうと思っていたから。
この街から去ることを勝手に決めておきながら、その日まで部屋に居させて欲しいなんて厚かましいお願いをするつもりはなかった。
けれども、彼が望んでくれるのならば、それが私にできるせめてもの罪償いだ。
「……うん。わかった。」
「良かった……。ありがとう。」
御礼を言われるようなことは、何ひとつしていない。
最後まで寛大で優しい彼の気持ちに、涙が零れ落ちそうになる。
彼が望む生活を捨ててまで自分で選んだ道。
彼の為にも、またピアノが弾けるように、前だけを見て歩こうと決めた。
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