記憶が引き連れてくる香り

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昨日は緊張しながら歩いた道を、沙耶は少しの余裕を弄びながら行く。 一直線とは言え、遠すぎる。 石垣のベットルームに着くまでに、実に5つもの部屋が、間に挟まれている。 ―今日はどんなふうにして起こそうか。 昨日の光景がリプレイされ、沙耶はうーんと頭を捻った。 ―ま、考えても仕方ないか。 漸く着いた、大きな扉の前で、沙耶は静かにノアノブを回し、隙間から中の様子を伺う。 と。 「覗いてんじゃねーよ。」 「うわ。」 ドアノブが反対側から引かれ、直ぐに落ちてきた不機嫌そうな声に少しだけ驚いた。 途端にアールグレイの香りが鼻腔を刺激する。 「お、起きてる…」 姿勢がやや前のめりになったまま、目の前の人物を見上げて沙耶は呟いた。 「何物珍しそうに見てんだよ。」 スーツを纏い、前髪だけ垂れている石垣が、眉間に皺を寄せている。 「一人で起きることはないのかと…」 思ったままを口に出せば、石垣は馬鹿にしたように笑った。 「たかが出勤二日で知った風な口をきくなよ。」 「なっ!」 相変わらずカチンとくる物言いに、むっとするが。 「下に行く」 石垣は体勢を崩した沙耶をぐいっと押しやって、スタスタと歩いて行ってしまう。 すれ違い様に、紅茶の香りを残して。
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