記憶が引き連れてくる香り

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時刻は午前の9時を過ぎた頃。 目の前には一点ものの椀に濃い緑茶が注がれ、湯気と共に青い薫りを運んでくる。 それぞれの前には、和菓子が、それも生菓子が置かれていて、各々色鮮やかで美しい。 だが、誰一人、それに手を付ける者はいなかった。 勿論沙耶は食べたかったのだが、他の二人の空気がそれを許さないのだ。 仕方がないので、先程からじっと正座をして、無言で会話に耳を傾ける。 「どうだね、経営の方は?」 低く、太い声が訊ねれば。 「気に掛けていただき、ありがとうございます。やらなければならない事に追われ、日々忙殺されていますが、やり甲斐があります。」 石垣が、まるで用意されていたかのようにスラスラと淀みなく答える。 「困ったことがあったら、私にも相談してくれて構わないんだよ。」 「恐縮です。」 ただの、挨拶のようなものかと、沙耶は思っていた。 社交辞令とかそんなもので、呼び出された本題はもっと別な話かと考え、早く先に進めばとっとと帰れるのに、と。 だが。 「まぁよくやっているようだが……嘉納の息子と懇意にするのはどうかと思うがね。」 「そこまで親しい間柄ではありません。ただの幼馴染なだけです。」 「ほぉ?そうかね?新しい事業に嘉納が関わったと風の噂で聞いたが、あれは事実ではないのかな。」 沙耶は直ぐに自分の考えに軌道修正を施さなければならなくなる。 なぜなら。 「関わると言う程の事はしてもらっていません。参考にした部分があっただけです。」 本題にはとっくに入っていたからだ。
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