記憶が引き連れてくる香り

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ごくり、と沙耶が唾を飲んだ音が、できた束の間の沈黙に響く。 「何故なら巌様は、現在はニューヨークを拠点としていますので、日本にはほとんどいらっしゃらない。勿論ご自身が建設現場の視察をするなんてこともありません。あの日だって、そのプロジェクトの責任者だった諒様が出向くことになっていました。」 なのに―、と坂月が憂いを帯びた目を伏せた。 「他の契約でたまたま帰国していらしゃった巌様が、何を思ったのか急に視察すると言い出しまして―。」 そこでアクシデントに見舞われたのだと言う。 元々正義感の強い沙耶は、知らず知らず眉間に皺を寄せ、歯噛みしていた。 ―それがもしも石垣の叔父のせいなのだとしたら。 「…なんでそんなことを、、する必要があるんですか?」 理由がわからなかった。 仮にも、自分の妹の子ではないか。 坂月は同意するように頷いた。 沙耶の疑問は最もだと言っている様でもあった。 「…これも定かではありませんが、何かしら巌様と佐伯様の間に確執があったからではないかと考えております。表面化してなかったので、大っぴらにはなっていませんが―」 坂月が手にしていたレコーダーにコードをくるくると巻きつける。 「恐らく奥様が亡くなられたことと何か関係しているのでは、と。」 「へっ!?」 「あれ、言ってませんでしたっけ?」 二度びっくり、どころではない。 さっきから、いや、出逢った頃から、この目の前の男は、こうした言い忘れで沙耶を何度困らせてきただろうか。
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