茜色の後の雨と、霞む空

21/42
前へ
/430ページ
次へ
そこで―。 『…さぁ?』 咄嗟に出たのがこれだった。 あんたなんかに教えないよ、という意地悪のつもりだった。 『……さぁちゃん?』 それを相手が勝手に名前だと勘違いした。 実名にも近いその名前に、沙耶はしまった、と思ったが、相手は嬉しそうにもう一度呼ぶ。 『さぁ、かぁ。さぁちゃんかぁ。』 否定するのも面倒になって、沙耶は渋々頷いた。 だが、相手の名前を訊くことは確かしなかった。 それか、訊いたが忘れてしまったのかもしれない。 そういえば。 大したことではないのだが、名前に関しては、引っかかっている事がひとつだけ、ある。 それは、『さぁちゃん』と呼ばれるようになって、少しした頃のこと。 いつもと同じ場所で、彼に会った。 『そんな所に居たの。捜しちゃったよ。』 何言ってるの、とばかりに沙耶は彼を見つめる。 『あの…さぁ…』 そんな沙耶の呆れた視線に気付かない彼は、少し言い難そうに、恥ずかしそうに、目を泳がせた。 『君の、名前を教えてもらってもいい?』 『―え?』 最初は冗談かと思った。 しかし、彼は本気で忘れてしまっていたらしかった。 呼んで貰っていた名前を、今更変える気にもなれず、沙耶は仕方なく前と同じように名乗った。 『…さぁ。』 だから。 沙耶のことを『さぁちゃん』と呼んだ子は、ひとりだけ。 咄嗟にはぐらかした名前の意味を、知っているのは、沙耶だけなのだ。
/430ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2917人が本棚に入れています
本棚に追加