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そこで―。
『…さぁ?』
咄嗟に出たのがこれだった。
あんたなんかに教えないよ、という意地悪のつもりだった。
『……さぁちゃん?』
それを相手が勝手に名前だと勘違いした。
実名にも近いその名前に、沙耶はしまった、と思ったが、相手は嬉しそうにもう一度呼ぶ。
『さぁ、かぁ。さぁちゃんかぁ。』
否定するのも面倒になって、沙耶は渋々頷いた。
だが、相手の名前を訊くことは確かしなかった。
それか、訊いたが忘れてしまったのかもしれない。
そういえば。
大したことではないのだが、名前に関しては、引っかかっている事がひとつだけ、ある。
それは、『さぁちゃん』と呼ばれるようになって、少しした頃のこと。
いつもと同じ場所で、彼に会った。
『そんな所に居たの。捜しちゃったよ。』
何言ってるの、とばかりに沙耶は彼を見つめる。
『あの…さぁ…』
そんな沙耶の呆れた視線に気付かない彼は、少し言い難そうに、恥ずかしそうに、目を泳がせた。
『君の、名前を教えてもらってもいい?』
『―え?』
最初は冗談かと思った。
しかし、彼は本気で忘れてしまっていたらしかった。
呼んで貰っていた名前を、今更変える気にもなれず、沙耶は仕方なく前と同じように名乗った。
『…さぁ。』
だから。
沙耶のことを『さぁちゃん』と呼んだ子は、ひとりだけ。
咄嗟にはぐらかした名前の意味を、知っているのは、沙耶だけなのだ。
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