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降りる権利
日本のこども達は、過度の競争的環境に置かれている、と、国連等から非難されている。過度の競争?
いや、この問題、レース強制参加と「降りる権利」がないことから来る。
レースの種類を増やし、ひとつかふたつレースに出れば、あとは降りて良い、そうなっていれば、子供だって、どのレースを勝ち抜くか、真剣に考える。
軽い歩行障害のある普通学級の子供、歩けるが走れない子供を、かけっこに参加させて笑い物にするのは残酷物語である。
まして、日教組型で、競争はいけない、順位はつけない、みんな頑張ったんだから、みんな一等賞、てやると、子供にはワケわからなくなる。一等賞品に鉛筆の一本も出て、はじめてホントの一等である。
そしてかけっこ一等の、その子は、運動会の翌日から、「やれば出来る、努力がたりない」と今度は教室でこれまた日教組偽善に晒されるのである。
子供は色々である。どうしても算数だけ可愛そうな位出来ない子がいる。
リンゴ3個みかん2個、合わせて何個?
これしきの問題にリンゴとミカンは全く違う、足し算してなんになる、と(おふざけでなく、真剣に)訴える子供がいる。
その子にリンゴだろうがミカンだろうが1個は1個だと教えるべきか、数学から降ろしてあげるかは、この子が国語で、登場人物の個性の差に、どれくらい敏感かで、私なら決める。
水は零度で凍る。何故零度か、と聞かれて答えられない子が、高校にもいる。水が零度で凍るのは、水の氷点を零度と決めたからである。
原理原則定理公式を、結果だけ与えられて、すぐ使い始める子を日教組型教師は毛嫌いするが、大部分の子は、それで良いのである。
国中にひとりか二人「●●の法則」と自分の名前が法則名になる子が出れば良いのである。
日本の競争教育の悲劇は、競争が悪いのではなく、子供たちが勝算のない苦手種目を棄権出来ない悲劇のほうが大きい。
勝負になってる分野のレースでは、子供たちは、競争を楽しんでいる。
五輪のメダリスト達は、どちらが金でどちらが銀だろうと、終わったら抱き合うではないか。
戦いの中にも楽しみがある。
繰り返す、見込みのない競技に子供を参加強制してはならない。
エリート戦から降りた子に、お馬鹿ながら優しく伸び伸び育つ権利を。
史上最低の総理にも、降りたあとには、愛と慈悲を!
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