16人が本棚に入れています
本棚に追加
呆気に取られた、というのが正しい表現だろう。
私の脳はしばらく稼動することをあきらめ、ぼーっとしていた。
どうしたらこうまで清々しい事を言えるのだろう。
どうやったらここまで汚れのない人間が出来上がるのだろう。
こうまで理不尽なことを、どうやったらこんなふうに割りきれるのだろう。
納得できるのだろう。
私は、瞳に込み上げて来るものの存在を隠すことに必死だった。
と言っても赦してもらえた事の嬉しさから来るそれではなく、
一番近いものの例えとしては、
美し過ぎるものを見たときに得る、人間の原始的な感動か。
何故、あんなに高校野球は輝いて見えるのか。
何故、棒を振り回し球を飛ばすだけの競技に、あれほど人は魅了されるのか。
その、私にとって、審判としてベースボールに関わる野球人としての、
永遠に思える課題の、ほんの尾っぽを見たような気がした。
高校球児は、野球選手は、
これほどまでに清々しいのか。
私は振り下げてそのまま宙ぶらりんにしていた右手を、
知らずの内にその青年に差し出していた。
馴れ合いがしたかったのではない。
この感動を与えてくれた彼に、どうしても感謝をつたえたかったのだ。
青年は快くそれを受け取ってくれた。
右手に、彼の持つ土まみれの左手の感覚がかさなって、
それまで私達を覆っていた膜のような疎外感がどこかに消えうせると
私も青年も、ようやくオーケストラの一員になれた。
大歓声が、心地好く聞こえたのだから間違いない。
もう一度、自分の神の手を見た。
私は一度神になった。
本当の意味での神の力を使ってしまった。
それで気づいた。
「審判は神様」という言葉は、
こういった清々しいまでに謙虚な野球人達の
フェアプレーの精神の下に成り立っているものなのだ。
ルールを守る事こそが相手への最高の敬意と信じ、
敵を恨まず、感謝を示し。
そのスポーツの美しさを魅せんとする者達の、泥まみれにしてなお爽やかな、
意地とも言うべきその誇りのーーー
集合、の声を上げ、
再び手を大きく掲げた私の心は
まるで、泥まみれで天を仰ぎ笑う、少年のような無垢さであった。
完
最初のコメントを投稿しよう!