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670馬力の女
───「ガコンッ」というギアが切り替わる音がこちらまで聞こえてきた。
クソ女はムルシエラゴのギアを一つ下げたらしく、レオより一歩前に出る。
減速するどころか加速しながらコーナーへ。
まず右に直角で折れ、それから左回りに180度の弧を描き、再び右に折れて元の直線に戻るというセクション。
弧の周は全長およそ100メートル。
さぁ、見せろクソ女。
先程のロータリーでやらかした何かを。
まずは直角の右。
ムルシエラゴの後輪から、ロータリーの突入時に見えたものと同じ白煙が上がった。
テールが左へ流れる。
一瞬にして車体が右向きへ変わる。
そして再び不可解な動作。
……トラクションが強すぎる。
ドリフトからグリップへの切り替わりは不自然なほど鋭い。
いま見せたそれは、車体の向きを変える為だけの“予備動作”だったらしい。
間を置かず180度の弧へ。
ギターの速弾きのように複雑に上下するムルシエラゴのエンジン音。
それに合わせてドラムを叩くようにマフラーから吹き上がる紅蓮のアフターフレイム。
リズミカルなアクセルワークで再びテールが流れ始める。
次は右へ。
狂ったように白煙を巻き上げながら、凄まじい推進力を生み続けるリアタイヤ。
並のドライバーならば一瞬にして反時計回りにスピンする。
しかしそうはさせまいと、カウンターを当て続けるフロントタイヤが完璧に車体を制御していた。
メーターを見るに、それも時速180キロを保ったまま。
必死に後を追うレオ。
レオは全力だった。
一瞬でも気を抜けば差をつけられる。
車体を傾けながらコーナーを駆けるムルシエラゴの車体左側からは、窓越しにハンドルを握るクソ女の姿が見えた。
表情まで確かめる余裕はない。
見えるのは、クソ女があの華奢な腕でムルシエラゴのハンドルを握っている姿だけだ。
二度目の強力すぎるトラクション。
ムルシエラゴは一瞬にして車体を安定させる。
セクションをクリアし直線へ。
ギアが落ちる。
マフラーから炎が迸(ほとばし)る。
4本のタイヤが670馬力のパワーを余すところなく、容赦なくアスファルトを蹴り上げる。
視界の中で刹那の間に小さくなったムルシエラゴ。
そのエンジン音は、限りなく人間の叫び声に近い。
エアコンを通して立ち込めるゴムの焼ける匂いに、かつてないほどの戦慄が走った───。
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