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張居正
湖北江陵県の人
嘉靖24年(1547年)の進士
眉目秀麗で美しい髭が腹まで届いたという。初めは翰林院庶吉士となり、徐階にその才能を認められ、門弟となる。
徐階が首輔(宰相)となるとその信任は更に厚くなり、礼部右侍郎・吏部左侍郎・礼部尚書などを歴任し、隆慶元年(1567年)に入閣、徐階が嘉靖帝の遺詔にことつけて、嘉靖帝が重用した道士を排除する際にはその片腕を務めた。
この時に徐階の政敵である高拱はこの謀議から外されていたことで徐階を恨み、徐階の子の罪を挙げて徐階を弾劾するが、逆に反撃に会い罷免された。
下野した高拱は太監の李芳などと結んで徐階の失脚を狙うようになる。その後、徐階は1568年に致仕し、その後任として礼部尚書の趙貞吉が選ばれた。
高拱は復権のための運動を行い、李芳を通じて張居正に協力を求め、高拱は復権して趙貞吉に代わって首輔となった。
張居正は高拱と結んで権力を振るったが、更に独裁権を得るために高拱に恨みを持っていた宦官・馮保(ひょうほ)と結び、高拱を陥れようとした。隆慶帝は1572年に死去し、張居正が傅(もりやく)を務めていた万暦帝が即位する。
この時に隆慶帝の遺詔を利用して高拱を解任させ、自ら首輔の地位に上った。
(wikipediaより)
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