476人が本棚に入れています
本棚に追加
その日一日、神保原と目が合うことはなかったが、俺は後ろの席から彼女を凝視していた。
「おい圭吾、お前今日ずっとそわそわしてっけど、もしかしてトイレ我慢してる?」
HR前、鼻の脂をティッシュで拭きながら俺の席に来たキモトは、不思議そうに首を傾げた。
「は、違うし」
「……なんだ、てっきり一人で我慢記録にでも挑戦してんのかと思ったぜ」
「んなくだらないこと、誰がするか」
――そういう下品なことは、もう少し小声で言えよ。
近くの女子にでも聞かれたら……いや、聞かれても聞かれてなくても、俺らの価値は何も変わらないのだが。
「ホントに変わったことない?」
「ないない」
早くも俺の異変に気付いたらしいキモトには感心しつつ、素知らぬ顔をする。
やがてHRが終わり、神保原が教室を出たのを確認すると、俺はちょこちょこと後を追った。
――何か変な感じだ。
現実世界で女子と待ち合わせをするのは初めての体験。
眼中にない神保原でも、少しばかりドキドキする。
「溝田君、こっちよ」
校門を出ると、すぐに名前を呼ばれた。
左を向くと、神保原は十メートル程離れた電柱に、隠れるように佇んでいた。
目が合うと手招きをされ、彼女は藍色の自転車に跨る。
「今から私の家へ行こうと思ってるの、ついて来て」
「家?……話をするんなら、どっかその辺の公園でも」
「見せたいものがあるの。きっと来ないと後悔するわよ、それでもいい?」
冷ややかで、挑発的にも見える視線。
別に断る理由はない。
俺が返事をせずにサドルに腰を下ろすと、神保原は喧噪な市街へと走り出した。
空は寂しくて切なくなるような、もぎたての林檎のように赤かった。
最初のコメントを投稿しよう!