家庭菜園

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 「ひまわりとトマトを育ててみようかと思う」  部屋の隅で、道夫先生が突然呟いた。  キャンバスから顔を上げて見ると、先生はコーヒーメーカーに話かけていた。  どうやら、独り言だったらしい。  ここに通いだして何年も経つが、未だに彼の思考回路はよく分からない。  確か先週は、家にプールが欲しいと地面を掘っていた気がする。  「どう思う直也くん」  「……質問だったんですか?」  「? あぁ」  さも突然といったように頷く。  「プールを作る前に夏が終わってしまうことに気付いたので、途中で穴を掘るのを止めたんだが、庭をそのままにしないでと、みくに怒られてな」  コーヒーを片手に優雅に立っている先生は、一見して医者か弁護士のようにも見える。  それが実の娘に怒られたからと、目を細くしているのだから怖い。  「もしかして、プールが畑に?」  「水を浪費する娯楽施設よりも、よほど生産的だろう」  嬉しそうに先生は語る。  いいから、絵の授業をしてください。  「まぁいいですけど、先輩は遅刻ですか?」  今日は終業式なので、昼には出てこれるはずなのだ。  また明日、という言葉が耳に残っている。  「時間にはうるさいんだがね」  先生は懐中時計とりだし、首をひねる。  「どこかで買い食いでもしてるんじゃないか?」 「まさか」  「いや、あれで最近、少し体のラインが太くなっている気がする」  恐ろしいことをさらりと言って、先生は自分のキャンバスにかかっていた布を剥いだ。  「……」  思わず息が止まった。  一見して、波立つ赤い水面に横たわる裸婦画に見える。  だがそれは、女性の唇に塗られた紅色が、そのまま大海のように広がっている様を示していた。  どこまでも続く波紋は、見ているうちに拡散と収束を繰り返す。  水たまりにスポンジを落とすように、荒々しく浸食してくる赤の中で、その源である美女だけが白くなっていく。  寄せては返す血の海。  赤い月。  満潮。  白く白く。  よく見れば、女性のお腹が膨らんでいて、奇妙な突起のような出っ張りがあった。  「あ、ははは」  忘れていた呼吸を再開して、目を押さえた。  軽い目眩がする。  これが青葉道夫だ。  その業界では知らぬ者のいない、奇鋭の絵師が目の前にいる。      
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