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「うるせえんだよお前は。ちょっとは黙れ」
前に琴に注意した時の声色より低い声で前川が言った。てっきり笑いでも起きるのかと握り締めていた手のひらの力が少しだけ緩む。
「頑張ってねー」
文恵がふいに、目の前を通る野球部の列にそう声をかけた。すると前川の隣にいた部員は歯を見せながら、笑って手を振る。その時琴はあることに気付いた。文恵の苗字も前川であることに。
「先頭、私のお兄ちゃんなんだ」
前川に聞こえないように小さな声で言ったのは、これ以上隣を歩く生徒に囃し立てられたら前川が何時怒り出すか分からないからだろう。二人の前を通り過ぎると、前川は隣の生徒の頭を容赦なく拳骨で殴っていた。薄々理解していたことだが、なんでもかんでも自分が被害者の様に感じてしまう自分の心が少し憎い。恐らくあの部員は、単に部長の妹をみつけて前川をひやかしたか何かをしただけなのであろう。琴の胸は自己嫌悪で一杯になった。
次に二年生と思われる集団が通り過ぎ、そこでも文恵は同じクラスだという部員何人かに手を振っていた。手を振られた部員は手を振りかえしたり、一言相づちを打ったりして通過していく。
「水沢ちゃんまた会った!」
「一色君」
二年生の後ろから出てきた一年生の中には勿論一色がいた。その隣には若干目つきの悪い部員が立っている。いつもにこにこしている一色とは正反対のイメージだ。一色は琴の目の前で、その少し後ろにもう一人が足を止める。何故だか後ろの部員の視線が刺さるような感覚に、琴は内心びくびくしながら一色と向き合う。
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