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「なんか、丸く収まったみたいですね。良かった良かった」
カウンターの中で、バーテンダーが頷いた。わがことのように顔をほころばせ、グラスを磨いている。
「金くらい貰えば良かったのに」
彼の目の前で、黒尽くめの男が言った。右手に昔ながらの消しゴム付き鉛筆を持ち、本を目の前に広げている。今度はナンプレをやっているようだ。
「お金が欲しくてやってるんじゃないです。そんなの分かってるじゃないですか」
「じゃ、正当な報酬を取りゃ良かったじゃねえか。金さえありゃ綺麗なべべ買えるだろうが」
「言い方ふるっ」
「オレは古い人間なんだよ」
黒い男は、鉛筆の消しゴムのついた方でこめかみを掻いた。美しいストレートの黒髪が、さらさらと揺れる。バーテンよりも少し年上、二十代の半ばにしか見えない。
「はいはい、おじいちゃん」
「やめろ、マスターと呼べ」
「マスター? 似合わないなぁ」
くすくすとバーテンが笑った。マスターは冷たい一瞥をくれていたが、全く意に介してはいないようだ。
「おめえ、あの女に入れ込んだのか」
「由佳さんに? やだな、そんな趣味ないですよ」
手を止めて、何を言い出すんだ、とでも言いたげに眉をしかめる。
「そうじゃねえ。あいつらを気に入っちまったんだろ」
バーテンは、拭き終わったグラスを男の目の前に置いた。奥の冷蔵庫から、二リットルのペットボトルを取り出す。
「……だってね、三カ月後に込めた意味、知ってます?」
「あれだろ、ナンタラの合格発表だろ」
「それもあるんですけど」
ペットボトルの玄米茶を、マスターのグラスに注いだ。ほのかに香ばしい香りが漂う。
「二人の、お付き合いを始めた記念日なんです。クレアさんにこっそり教えてくれたそうですよ。翔平さん、クローバーのチャームに添えて合格通知をプレゼントにするつもりなんだって」
「けっ、キザだねえ」
「だから、僕たちからもプレゼント。一度くらいはこういうのも良いでしょう?」
黒尽くめのマスターは、返事の代わりに玄米茶をあおった。渋い顔をしているが、決して不機嫌ではないことをバーテンは知っている。
「次の客を待ちましょう。今度はちゃんと報酬をいただくことにして」
時が止まったような静寂と、適度に落とされた照明。
毎夜ひっそりと開かれるバーは、次の客を待っている。
【End.】
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