好きです

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 周囲を散策してくると言っていたが、あまりに見る物がなくて帰ってきたのだろう。  「さっぱりだわ」  目を細めて先輩が呟く。  それが皮肉なのか誉め言葉なのかは分からない。  「絵を描いてるときにお話ししてもいいよね?」  「……いつも聞きますね、それ」  「そうだっけ?」  まぁ、自覚がないから繰り返すだろう。  「なんでかな。君の絵を描いてるときの真剣な顔を見てると、心配になるんだよ……」  指定した場所に腰を下ろして、先輩が小首をかしげる。  絵を描いてる時だけはね、君が儚いっていうか、弱くみえるから」  「……」  僕は無言で、ハンカチで柄を巻いたナイフで鉛筆を削った。  真新しい銀色のナイフだ。  「……昨日、あれから何かありました?」  「ううん、何もないよ。どうしたの怖い顔して?」  「いえ。先輩の家のちかくで事件があったって聞いたんです」  「あ、あったあった!」  先輩がちょん、と手を打つ。  「なんか夜遅くに喧嘩があったらしいね。あの男が言ってた」  「先生が?」  「朝早くに帰ってきたらしいんだけど、救急車まで来てたらしいよ。わたし寝てたけど」  えっ、と僕は顔を向けた。  「先生、朝帰りだったんですか?」  「そうだよ」  「じゃあ、昨日は先輩一人だったのか……」  「物騒だよね。ホントに泊まってってくれれば良かったのに」  先輩は何も知らずに笑う。  「駄目ですよ。そんなことしたら、足腰立たなくなりますから」  「君、自分の布団じゃなきゃ眠れないんだ」  先輩が、やっぱり何も知らずに笑う。  僕は溜息をついて、鉛筆の削りかすを払った。  「先輩。カマトトって知ってます。  「カマトト? かまぼこの仲間? 画家の名前かな?」  下草をぬいて風に流しながら、彼女は顎に手を添えて考え込む。  「……天然記念物です。食べられますよ」  「ああ、そう。美味しそうね」  「ええ、美味しいですよ」  笑顔で言いながら、僕はその言葉を、使ったら年寄り臭い言葉のリストにくわえた。  ・  ・  ・  ・  ・  珍しいと言えば珍しい。  先輩は世間話をしながら、持参してきた国語の教科書を読んでいる。  僕も上の空で会話に相づちを打ちながら、スケッチブックに先輩の姿を描き込んでいった。  その姿は繊細で、透明で、もの凄く強い。
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