好きです

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 「……本当に勉強してるんですね」  「うん」  本から顔も上げず、先輩は頷く。  先ほどからページが進んでいない。  それなのに彼女の口は何かを刻んでいる。  そんなに熱中して、何を読んでいるのだろう。  気になる。  「うふふ」  「なんです?」  「あっ、やっぱり気付いてないんだ?」  先輩は、うーん、と顎に手を添えながらおかしそうに口元をほころばす。  「筆が止まってる。ぼーとしてて可愛い♪」  「え?」  確かに、一向に画布が埋まらない。  先輩が一挙動するたびに、どうやって絵にするかが拡散してしまう。  「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも染まずただよふ」  「? 若山牧水……」  ゆっくりとした呟きだった。  教科書を閉じて、先輩が頷く。  「うん。この歌は人に教えてもらったんだけど、とっても好きなんだ」  「男の人?」  頭の芯がズキズキする感じに、言葉が押し出される。  普段なら、NGワードとして理性が止めるのに。  違うよ、と先輩は小さく苦笑いした。  「昔、中学生の頃、飼育係で一緒だったわたしの先輩が教えてくれたの」  「……そうなんだ」  僕は無性に自分が恥ずかしくて、視線を下げた。  と、絵の中に彼女もこちらを見ていた。  パッ――と視界が晴れる。  先輩がキャンバスをひきぬいていた。  「ねぇ君? この歌を詠んだ人は本当にその景色を見たと思うかね?」  国語の教師でもまねるように、先輩は目を閉じて人差し指を立てる。  間近にある顔に、鼓動が高鳴る。  「さ、さぁ……知りませんけど」  「わたしは見てないと思う。全然知らないけど」  思うと言うが、知らないと言うが、恐ろしく断定している口振り。  「じゃあ、この歌を聞いて何を思うかい少年?」  「え、と」  「考えないで」  静かに、僕の耳元でゆっくりと先輩が囁く。  「思ったことを、素直に言葉にするの。そっと。ただそれだけだいいの」  「寂しい」  小さな言葉が漏れだして、自分でも驚いた。  唇に、温かい感触が触れる。  「……ご褒美です」  「……」  彼女はゆっくりと僕から離れて、真っ赤な顔を隠すこともなく微笑む。  「勉強はあなたが先生。絵はわたしが先生」  呆気にとられる。  なにが起こっているのかさっぱり分からない。  唯一、先輩が楽しそうだということは、分かる。  
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