冬虫夏草

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 それはただ、絵の全景を見ようとしての行為だったのに、結果として、自分の目標よりも後ろに下がってしまう。  「……っ……!」  口元を押さえて、俯く。  ただ、細めた視線だけはキャンバスに向けていた。  太陽の花。  風にざわめくひまわり畑の苗床は、横たわる一人の女性だった。  女性の腕や足、背中や首筋を貫いて、輝かしく――そして恐ろしいまでに生気を帯びたひまわりが咲き乱れている。  冬虫夏草。  吐き気をもよおすが、唇をかみしめて絵を直視する。  かろうじて識別できる女性の服装は、黒色と白を織り交ぜたワンピース――、一見して先輩に見えたが、彼女の母親だろう。  とすれば、先輩は母親の生き写しだ。  「化け物め……」  つぶやきが漏れる。  神よ――と言うには、人間の所行はあまりにも純粋すぎた。  水気を失った唇をなめるが、あまり湿らない。  それなのに、クーラーの効きすぎた部屋の中で、身体はじっとりと汗ばむ。  無意識にポケットから銀色のナイフをとりだしていた。  無感動に、昨日的ではない輝きを放つ刀身を見つめ、ナイフの役目を思いだす。  ナイフを振り上げ、息を止める。  先生の絵を切り裂く。  無垢な少女を前にしたって、これほど興奮することはあるまい。  殺し合いと恋愛は似ていると、昔、誰かが言っていた。  ОK。  認めよう。  「は……ははは」  膝が崩れた。  「はは……ははは……はははははははは!」  顔を押さえて、笑いを堪えようとするが、止まらない。  激しくせき込み、涙がこぼれた。  出来なかった。  女性の顔がいけない。  みく先輩とうり二つなその相貌は、あまりにも美しすぎた。  そして慈愛に満ちた笑みを浮かべているのだ。      夏の午後はなにもかもが遅い。  あらゆる意味で胃の中を空にした僕は、ふらつく足取りで先輩の部屋に辿り着いた。  離れまでの道のりすら辛かった。  先輩が、太陽を嫌がる気持ちがよく分かる。  サンフラワーの名にふさわしく、僕が知る限り、夏の太陽は世界で最も大きなひまわりだった。  間違いなく、気象衛星よりは大きい。  部屋に入って、僕は唖然とした。  涼やかとは言い難い夏の生暖かい風に吹かれて、カーテンが揺れている。  ――ゆらゆら  ――ゆらゆら  窓辺に先生が立っている。  
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