冬虫夏草

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 手にしたスケッチブックに見入っていて、まだ、こちらに気付いていない。  立ち去ろうかとも思ったが、開け放たれた扉をノックした。  「ん?」  「……こんにちは」  「あぁ」  目立った反応もなく、先生はスケッチブックをパタンと閉じた。  「これは、君が描いたのか?」  「……どれです」  鈍く痛むこめかみを押さえて、彼の差し出したスケッチブックを覗き込む。  それは、あの草原で描いた先輩の絵だった。  ありのままを楽しく。  夢のように動き回る先輩が描かれている。  夏の1ページ。  「ええ、習作です。みく先輩が欲しいと言うので――」  「そうか」  先生は小さく頷き、薄く微笑んだ。  「どうしてだろうな。何がたったのか知らないが、これはこれで、とても心惹かれる」  ページを手操りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。  「私は、あの子のこんな笑顔を見たことがない」  先生は自嘲気味に笑む。  僕はこんな笑顔しか見たことがない。  会話はそれだけだった。  お互いに、警察無線のように無駄なことは話さない。  雨にうずく古傷のように、沈黙が耳を責める。  「あの……ひまわりの絵ですけど」  「ひまわり?」  「先生の奥さんを描いたヤツです。  「ああ――」  窓際にゆっくりと腰を下ろして、先生はどこか遠くを見つめた。  「――うん、あれは傑作だった。彼女は絵のモデルとしては最高だった。大人しくて、物静かだが、自分を囲む世界を精一杯に感じていた。自分がどこに立てば、自然と調和できるのかを知っていた」  「一種の巫女ですね」  「うん。それに近いかな」  「……では、最も原始的な巫女の役割をご存じですか?」  問いに――先生の動きが止まった。  別に彼は、走っていたのでも、手を振っていたのでもない。  ただ、指先の震えやまばたき、視線の動きが止まったのだ。  まるで心臓すら停止しているように思えた。  先生の虚ろな瞳に捕らえられて、自分の人生の中で、これほど命の危険を覚えたことはない。  それほど、穏やかな静だった。  だが、心臓をそう何秒も止められるはずもない。  そんな子供じみた幻想の終わりと時を同じくして、先生も呟いた。  「生贄かな?」  僕は答えない。  お互いに、無駄なことは話さない。   
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